利
王 何ぞ必しも利をいわん。
― 『孟子』 (金谷 治)―
昨日も今日も朝から子どもたちが来ていた。
入試まであと十日だ。
子どもたちは、勝手に来て、勝手に勉強をし、勝手に帰り、そして、またやって来たり。
私は椅子に座って、新聞を広げたり、本を読んでいたりすればいい。
ときどき質問があり、しばらくの談笑もあったりするが、そのうちまたみんな勉強を始める。
私もまた本に戻る。
文章を書いたりは出来ないが、そうやってかたわらにやわらかな人の気配がするというのは悪くないものだ。
こうやって、子どもたちが勝手に勉強して、私がほとんど何も教えていない時こそが、この塾が一番塾らしく機能している時間のように思える。
もっとも、それは私が気楽であるということを、そういうふうに「正当化」しているだけのことかもしれないのだが。
とはいえ、わざわざここに勉強しにやって来るということは、子どもたちもまたここが「居心地がいい」ということで、その人が気楽であったり居心地がよかったりするというのが、いわゆる「幸福」ということの定義なのであってみれば、子どもも私も一種の「幸福」の中にいるということなのだろう。
というわけで、子どもたちが来て部屋で勝手に勉強しているというのは、なかなか楽しいことなのだが、実は困ることが一つだけ、ある。
彼らがいると、部屋の中で気ままにたばこを吸えないのだ。
昔は、平気で授業中もプカプカやっていたものだが、さすがにそうはいかないご時世になった。
そういうわけで、せっかくコーヒーを淹れてみても、なにやらものたりぬ気分になる。
そして、さびしく台所に立つことになる。
さて、タバコを吸い終わって椅子に腰を下ろして毎日新聞を広げると、書評欄の「好きなもの」というコラムで、小林政広という映画監督が、その「好きなもの」の三番目に「タバコ」をあげて、
これだけ嫌煙家が幅を利かせている現代にあって、タバコを吸う利点がどこにあるのか?
全くありはしないのですが、それでもぼくはタバコを吸います。ごめんなさい。
と書いてあって、ここに同好同憂の士を見つけた私、思わず、ふふふ、と笑ってしまった。
まあ、かく言う私も「タバコを吸う利点は」と問わるれば
孟子対(こた)へて曰く
「王、何ぞ必ずしも利を曰(い)はん!」
と言うて、相手を煙に巻くしかないのはあるが。
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