《徒然草》 第七十七段
世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。
ことに、かたほとりなるひじり法師などぞ、世の人の上は、わがごとく尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。
世の中で、今噂になって言い合っていることに、口出しすべきでもない関係のない人が、裏話なぞをよく知っていて、人に語ってみせたり、あるいはこまごまとした内部事情を尋ね聞いたりしているのは、いったい何なんだろうと思う。
特に、都のこともよく知らぬ片田舎のひじり法師が、世間の人の身の上のことを、自分のことのように聞いてまわり、どうしてこんなにまで知っているのだ思うくらい、あちこちで言いふらしているようなのは、まったくバカじゃなかろうかと思う。
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何のかかわりもない他人の個人的な事柄を必要以上にいろいろ知っている人というものはいるものである。
そのような人たちがどのようにしてそのような「情報」を手に入れるのか私にはわからないが、要は《好奇心》の向かう方向が私とまるで違っているのだろう。
だから、私としては、好きになさい、というほかはない。
というわけで、兼好の意見に何一つ加えることもないが、そういえば、英雄伝で有名なプルタルコスに
「知りたがりについて」
という文章があったことを思い出してひさしぶりに読んでみた。
中にこんな言葉が引用してあった。
風の中で一番いやなのは、衣服の裾を吹きあげるもの
兼好の書いている者とプルタルコスの言う「知りたがり」はちがうのかもしれないが、人が知られたくもないものや、自分の関わりのないことに顔を突っ込みたがるところは同じだろう。
ところで、この章段は二文。
プルタルコスの方は岩波文庫で28ページ。
同じことを書くのでもこんなに量がちがうのは、兼好が読み手を説得しようなどとは思っていないからだろう。
よくもあしくも、徒然草とはそういう文章である。