《徒然草》 第六十九段
書写の上人は、法華読誦(どくじゅ)の功つもりて、六根浄(ろくこんじやう)にかなへる人なりけり。
旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻(から)をたきて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、
「疎からぬおのれらしも、恨めしく、われをば煮て、からき目を見するものかな」
と言ひけり。
たかるる豆殻のはらはらと鳴る音は、
「わが心よりすることかは。
焼かるるはいかばかり堪へがたけれども、力なき事なり。
かくな恨み給ひそ」
とぞ聞えける。
播磨の国の書写山の性空上人は、法華経を読誦している功徳が積もって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が清らかになる境地に達した人であった。
その上人が旅先の粗末な小屋に泊まった折、豆の殻で豆を煮る音がぐつぐつと鳴っているのをお聞きになられたとき、豆が
「もともと同じ身から出た兄弟ともいうべきおまえたちが、恨めしいことに私を煮て、私をつらい目に合わせるんだなあ」
言っているように聞かれた。
一方燃やされる豆殻がぱちぱちと鳴っている音は、
「こんなことを、私の本心からやるものですか。
自分が焼かれるのはどんなにか堪えがたいことではあるけれども、私にはどうしようもないのです。
そんなふうに私を恨まないでください」
と、言っているように聞こえたそうである。
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この話で思い出すのは、「七歩の詩」の話である。
三国志で有名な曹操の息子の曹植は、その才気により父親・曹操から愛されていたが、兄の曹丕(そうひ)が魏の皇帝(文帝)になるや、その詩才をねたまれ、七歩歩くうちに詩を作らねば罰すると言われて、以下のような詩を作ったという。
煮豆燃豆萁 豆を煮るに豆萁(まめがら)を燃やす
豆在釜中泣 豆は釜中(ふちゅう)に在って泣く
本是同根生 本(もと)是(これ)同根より生ず
相煎何太急 相(あい)煎(い)ること何ぞ太(はなは)だ急なる
「書写の上人」の話も、もとはここから出ているのであろう。
もっとも、詩の方は、釜中の豆を自分に、それを泣かせる豆萁(まめがら)を兄に擬して、兄弟がたがいに傷つけあうことを歎いた詩であるが、書写山の上人の方は、煮られる豆の方の歎きだけではなく、燃やしている豆がらの方も、これをやりたくてやっているのではないと嘆いていると聞くところが、そこに人が生きる業を見て、「法華読誦の功つもりて、六根浄にかなへる人」たるゆえんなのであろうか。