《徒然草》 第六十七段
加茂の岩本・橋本は、実方・業平なり。
人の常に言ひまがへ侍れば、一年(ひととせ)参りたりし、老いたる宮司(みやづかさ)の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、
「実方は、御手洗(みたらし)に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水に近ければと覚え侍る。 吉水和尚(よしみづのくわしやう)、
月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」
と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
上賀茂神社の末社である岩本社は在原業平、橋本社は藤原実方をそれぞれ祀ってあるのだ、と、人がいつも両社を混同して言い間違っていますので、ある年、参拝した時、年を取った宮司が通り過ぎようとするのを呼びとめて尋ねましたところ、
「実方を祀ってあるのは、御手洗川にその影が映ったところと申しますので、橋本社の方ではないでしょうか。
そちらの方が御手洗川に近いものですから、そう思います。
また、吉水和尚と呼ばれた慈円が
月をめで花をながめてもの思いにふけった昔の優雅な人はここにおります(在原)
という歌をお詠みなされたのは岩本の社だとお聞きしておりますけれど、そのようなことは、わたくしどもよりあなた様の方がかえってよくご存知のことでございましょう」
と、たいそう恭しく言ったのは立派な態度だと思いました。
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「和尚」というのは当然《おしょう》と読むのだと思っていたら、《くわしやう》とルビがふってあった。
なんだろか、と思って字引〈旺文社古語辞典)を引いてみると、宗派によってその読み方がちがうんだそうな。
天台宗・華厳宗では 《 くわしやう 》 〈漢音〉、
法相宗・律宗では、 《 わじやう 》 〈呉音〉、
禅宗では、 《 をしやう 》 〈唐音〉
と呼ぶのだそうです。
そういえば、ここに出てくる吉水和尚=慈円は「愚管抄」を書いた人として高校の日本史で習いますが、たしかに、天台座主・慈円でした。
一方、唐招提寺を建てられた鑑真は「鑑真おしょう」ではなく「鑑真わじょう」と言いますが、 鑑真は日本に律宗を伝えた人で、唐招提寺は律宗の総本山です。
そんな区別があろうとは知りませんでした。
まあ、別に、昔話に出てくる「おしょうさん」というのが、みんな禅宗のお坊さんだということではないとは思いますが。