「甑落とし」考
竃(かまど)や竃神をめぐる昔話や儀礼は多いが、いずれも秩序の転換に関連したものである。これは竃が此の世と異界の境界にあるためである。
― 飯島吉晴 「竃神と厠神」―
かつて、宮崎駿の「ハウルの動く城」を論じた際、私は、これが火というものが持つ力の二つの面を象徴的に表した物語でもあることを示唆しておいたことがある。
その一つは、女性が扱う、食物を調理するための火であり、いま一つは、男性が扱う、金属を生成したり動力として使われるための火である。
物語は現代において肥大化してしまった男性が扱う火の力を女性が扱う火の大きさまで引き戻す話であると。
しかしながら、言うまでもなく、これら二つは、ともに、火が持つ、物質を変質・変成させる力の現れ方の違いに過ぎないだろう。
前者が、そのままでは食べられない食料を、火によって、人間が食べることができる食物に変化させるのに対し、後者は、地中深く埋もれ石の中に秘められていたものを、火によって、人が使うに足る金属へと変身させる。
そのいずれも、異界にあって人と無縁であった物が、火を媒介とすることによって、此の世の、人が生きる秩序の中に組み込まれるという点では同じであろう。
そのような意味で、昔の人々にとって、家の中にあって、ものを変成させる機能を持つ火を扱う竃(かまど)という場所が、飯島吉晴氏が指摘するように「此の世と異界の境界」であると、とらえられてきたことは十分に納得がいくだろう。
竃(かまど)が此の世と異界との境界であるとの無意識のうちの認識は、なにも日本固有のことではない。
たとえば、シンデレラという娘が、なぜ魔法使いによって美しく変身することができたのかが、実は彼女が「灰かぶり」と呼ばれるほどに、始終竃(かまど)の火を扱うように継母から命じられていたこととまったく無縁ではないことを思えば、西洋においても、竃(かまど)が異界との境界であると認識されていたことはわかるだろう。
ところで、飯島氏の本によれば、出産のあとの後産として母体から出てくる胞衣(えな=胎盤)は、かつては家の竃(かまど)のそばに埋められたのだという。
なぜ、それが竃のそばでなければならないのかは、出産もまた、異界と此の世との境界に属する出来事であると、昔の人にはとらえられていたからであろう。
ところで、死が、人が此の世から異界に赴くことを意味するなら、出産は目に見えぬ異界から此の世への人の到来を意味するだろう。
そして、母体にあって、目に見えぬ異界のものを胎児としてはぐくみ、やがて赤ん坊として此の世へ現れることを媒介したものが胎盤である。
胎盤は、いわば異界と此の世との境界物であったがゆえに、同じく異界との境界である竃のそばに埋めなければならないだろう。
さて、その胎盤が母体に長く滞っているとき、甑(こしき)を屋根から落として、その排出を促す話が、昨日の《徒然草》に出てきた。
それを兼好は「させる本説なし」と書いてはいるが、上のように考えていくなら、そこには何らかの根拠は存在するだろうと想像することはできる。
甑は、昨日も書いたように、湯気の通路としての穴を下部に持ち、生のままでは食べられない米や豆を蒸す調理器具である。
甑で蒸す事によって、異界の物であった米や豆は、此の世の食物に変身する。
つまり、甑もまた、胎盤同様、異界の存在であった物を此の世の物に変身させるものである。
また、甑が今の蒸籠(せいろ)と同様、円形をしていたとすれば、まずそれが、胎盤の形との相似していることも、古人の目を引いたであろう。
さて、異界の者であった胎児は、すでに産声を上げ、此の世の秩序の中に出てきている。
そのとき、異界と此の世との仲介者であった胎盤はその役目を終えている。
にもかかわらず、仲介者としてそのまま胎盤が母体に留まっているという母体の危機にあって、人びとは、同じく異界の物を此の世の物に変身させる物である甑(たぶん瓦製)を屋根から落とし、それを割ることによって、胎盤にその役目を終えたことを告げ、その排出を促したのではなかろうか。
また、その当時の日本の出産は、妊婦が座位のまま梁(はり)から下げた綱につかまらせて行なわれたのであるから、上から下へ甑を落とすことが、出産や胎盤の排出のアナロジーになったことも考えに入れておいていいかもしれない。
もちろん、これらは、皆、私のただの妄想ではあるのですが。