《徒然草》 第五十九段
大事を思ひ立たん人は、去りがたく心にかからん事の本意を遂げずして、さながらに捨つべきなり。
「しばしこの事はてて」、「おなじくは、かのこと沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたためまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、ほどあらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。
おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。
身を助けんとすれば、恥をもかへりみず、財(たから)をも捨てて逃れ去るぞかし。
命は人を待つものかは。
無常の来たる事は、水火の攻むるよりもすみやかに、逃れがたきものを、その時、老いたる親、いとけなき子、君の恩、人の情け、捨てがたしとて捨てざらんや。
出家の大事を思い立った人は、たとえ、ほかに捨て去るにしのびない心残りのことがあったとしても、それをやり終えたりしないで、それらは中途半端ままにそのまま置き去りにすべきである。
そのとき、
「とりあえず、このことを終わらせてから」
とか、
「どうせ出家するのなら、あのことの処理をして置いてからにしよう」
とか、
「これこれのことを、このままにしておけば、きっと人に嗤われてしまうだろう。
あとから非難をこうむらないように、ちゃんとしておこう」
とか、あるいは、
「長年こうやってきたのだ、あのことの結着がつくまで待とう。そんなに時間はかかるまい。
バタバタと急いだりしないようにしよう」
などと思っていたのでは、避けられないやらねばならぬことがますます重なって、尽きることがなく、それでは出家を思い立つ日がやってくるわけもない。
だいたい、世間の人を見ていると、すこしもののわかったぐらいの人は、皆、こういう予定だけで一生が過ぎてゆくようだ。
近所が火事などで逃げる人は
「しばらく待って」
などと言うだろうか。
自分の身が助かろうと思えば、恥も外聞もかなぐり捨て、財産も打ち捨てて逃げ去るものではないか。
死がやって来ることは、水や火が襲いかかるよりもはやく、逃れがたいものであるのに、そのとき、老いた親や幼い子、あるいは主君の恩などを、捨てることがむずかしいといって捨てないでいられるものだろうか。
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近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。
と、兼好は書いておるのですが、実は、私、東日本大震災が起きた時、灯油を入れていたのですが、震度5でガソリンスタンドの屋根がぐらぐら揺れて、周りの人々はみんな道路の方に逃げたのに、
「おっと、これじゃあ灯油がこぼれてまう」
とポリタンクの蓋を閉めていて俊ちゃんに呆れらておりました。
こんな男には、大事を 思ひ立つ日もあるべからず でございます。