《徒然草》 第五十段
応長のころ、伊勢国(いせのくに)より、女の鬼になりたるを、率(ゐ)て上(のぼ)りたりといふ事ありて、そのころ廿日(はつか)ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出でまどふ。
昨日は西園寺に参りたりし、今日は院に参るべし、ただ今はそこそこに、など言ひ合へり。
まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。
上下ただ鬼の事のみ言ひやまず。
そのころ、東山より安居院辺(あぐゐのへん)へ罷(まか)り侍りしに、四条よりかみさまの人、皆北をさして走る。
「一条室町に鬼あり」とののしり合へり。
今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、さらに通り得べうもあらず立ちこみたり。
はやく跡なき事にはあらざらめりとて、人をやりて見するに、おほかた逢へる者なし。
暮るるまでかく立ち騒ぎて、さては闘諍(とうじやう)おこりて、あさましきととどもありけり。
そのころ、おしなべて、二三日(ふつかみか)人のわづらふ事侍りしをぞ、かの鬼の虚言は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。
応長(1311~1312)のころ、伊勢の国から、女が鬼になったものを、引き連れて京に上って来たという事があって、そのころ二十日間ばかり、毎日毎日、都の人々はその鬼を見るのだといって、むやみやたらに出歩きました。
人々は、鬼は、昨日は、西園寺様の邸におうかがいしていた、今日は上皇の御所に参上するはずだ、今はどこそこにいるぞ、言い合っていました。
けれども、たしかに見た、という人もいなければ、でたらめだという人もいません。
というわけで、そのときは、身分の高い人も卑しい人も、ただただ鬼の事ばかりを言って飽く事がありませんでした。
そのころ、東山から安居院の辺りへ行きましたところ、四条通りより御所に近い側の人たちが、みんな北に向かって走っています。
その人たちは、「今、一条室町に鬼がいるぞ」と口々騒ぎ立てています。
今出川の辺りから見ると、一条室町にある院の御桟敷の辺りは、まったく通ることもできそうもないほど、人々が混み合っていました。
もともと、鬼がいるというのは根拠のないことではないようだと思って、人をやって見させたところ、鬼に逢ったという者はまったくいません。
日が暮れるまでこんなふうにみんな大騒ぎをして、あげくには喧嘩までおきるという、なんとも呆れかえるようなことどもさえありました。
そのころ、世間に広く、二三日具合が悪くなる病気がはやったことがありましたことを、あの鬼がいるという「そらごと」は、この病の流行の前兆だったのだなあ、と言う人もございました。
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この段の話を読んで、昔、怖~い話がいっぱい載っている本を読んでいた、当時中学生だった俊ちゃんから
「せんせ、知ってる?
松戸の駅のホームの端の暗がりのところに、赤鉛筆を耳にはさんだおじさんの幽霊が出るんだよ」
と真顔で言われて、大笑いした事を思い出しました。(ちなみに松戸には競輪場があります)
と、私は松戸の赤鉛筆を耳にはさんだ幽霊を笑ったわけですが、兼好氏は、この「鬼になってしまった女」(角が生えてきたのでしょうか)を伊勢から引き連れて来たという話を
はやく跡なき事にはあらざらめり
(もともと根拠のない事であるわけではないようだ)
と思っていたようですな。
人をやって確かめさせている。
それで、どうやらこれは「虚言」だったと断じたらしいのですが、それでも、この「そらごと」は疫病が流行することの前兆だったのだなあ、と言った人の言にはどこか肯定する思いはあったように思えます。