「狐の皮衣」 司さん
陳舜臣の『中国任侠伝』を読んだ。
二回目か三回目だ。
今まで素通りしてきたあることが気にかかった。
孟嘗君が秦の昭王に招かれた時、「狐白裘(こはくきゅう)」を土産に献上した云々とある。
これが狐の皮衣である。
今の今まで、私は中也のその詩の意味を全く考えていなかった。
ただ言葉の調べに酔っていたようなものだ。
狐の皮衣とはさほどに高価なものなのか、とあらためて思い、そうすると「よごれちまった悲しみ」って何なんだろう、誰の悲しみがよごれてしまったのだろう、などと今さらながらに思いがめぐります。
皮衣を身に付けているのは女性でしょう。
それは他の男から貰ったものであろう。
そういうことなんけ? といったことを初めて考えたりしました。
今まで私は、映画『太陽がいっぱい』のテーマ曲に合わせてその詩を歌って、一人悦に入っていたのです。
ただそれだけの楽しみ方で、時折思い出しては。
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おたよりありがとうございます。
百人一首に
夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
という清少納言の歌が取られておりますが、この歌のもとになった故事「鶏鳴狗盗」の主人公が孟嘗君ですな。
この人、号するに、食客三千人。
食客、と言えば聞こえはいいが、まあ、居候です。
それに、三千人、と一口には言いますが、全校生徒1000人の高校の全校集会を三校合同でやってるみたいもんですからね。
これを、ひとりで養っていたってんですから、めちゃくちゃですな。
というわけで、人が三千人いれば、まあ、中には泥棒もいれば、ただの物まね上手もいた。
さて、 この孟嘗君、もともと斉の国(黄海をはさんで朝鮮半島の西に在る山東半島にあった国)の人だったのに、能力を買われて、秦(そこから500キロも内陸の国)の宰相になったんですが、そのとき、手土産に持って行ったのが、司氏が書いておられる「狐白裘」。
狐の腋の下にわずかにある白い毛だけを集めて作ったかわごろもです。
貴重なんです。
(ちなみに、《裘》という字は、一字で「かわごろも」と読みますが、実は
求
の字が、そもそも、獣の皮を剥いだ形の象形文字なんです。
そう思って見れば、どこかの、アホな成金が自慢げに家に敷いていたりする、虎とか熊の毛皮にそっくりでしょ。
《裘》はその「求」を衣用に仕立てたものです)
というわけで、めでたく、秦の総理大臣になった。
でも、この人、なにしろ斉の国の人だから、秦よりも斉を大事にするんじゃないかと、秦の国の王さまの猜疑を買うことになり、殺されそうになる。
やれ、危ない、ってんで、その王様の寵姫に、口利きを頼むわけですが、このおなごは言うわけです。
「やってあげてもいいけど、ただじゃイヤよ。
王さまにあげたの同じような「コハクキュウ」を私にもちょうだいな。
そしたら、口を利いてあげてもいいわよ」
うーん、コマッタ。
なにしろ、「コハクキュウ」というのは、貴重なんです。
そんなの一つしか持ってない。
そいつを王さまへの手土産にしたんです。
どうしよう…、と、腕組みしているところに手を上げたのが、居候の中の泥棒名人。
「なあに、簡単なこってすよ、あっしがひとつ盗んできやしょう!」
てんで、まんまと王宮に忍び込んで、そいつを盗み返して来た。
(まあ、たぶん当時の秦の国の王宮も、今の日本国の首相官邸ぐらいの警備の薄さだったんでしょうな。
司馬遷は書いてはいないが、きっと屋上から入ったんでしょう)
さて、孟嘗君、その狐白裘を女に贈って、急場はしのいだんだが、王さまの気持がいつ変わるかわからないってんで、食客引き連れて国境に急ぐんです。
ところが、この国境にあるのが函谷関。
滝廉太郎作曲の「箱根八里」では、
箱根の山は 天下の険
函谷関も ものならず
なんてイバッてますから、まあ厳しい警備の代名詞みたいな関所です。
すくなくとも、そこは、夜が明けない限り、通行できない。
ところが、そこに一行がたどりついたのは、まだ夜中。
後ろから、追手は迫って来ている。
どうしよう……と、また思うわけです。
すると、今度はもの真似名人が手を上げるわけです。
パパゲーノみたいに鳥笛を吹いて 《ハイサ・ホプサッサ》と歌ったわけじゃなくて、自慢ののどで
コケコッコー
と鳴いてみせた。
「おや、もう夜明けかい」
てんで、関守役人が目をこすりこすり扉を開けた、って言うんですから、ひょっとしたら、噂ほどたいした関所じゃなかったのかもしれない。
なんだか、ほとんど、落語ですね、これは。
とまあ、図に乗って、皆さんよくご存知の事を長々書いてきたけれど、これじゃあ、ぜんぜん、司氏の話の感想になっとりませんな。
言うまでもなく、ほんとは、司氏がこの話から思い出したという中也の詩について書こうと思って書きはじめたのに。
でもまあ、長くなったので、今回はここでやめときます。
すてぱん