《徒然草》 第四十四段
あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣(かりぎぬ)に濃き指貫(さしぬき)、いと故づきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中のほそ道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ。
榻(しぢ)に立てたる車も見ゆるも、都よりは目とまる心ちして、下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはしますころにて、御仏事などさうらふにや」といふ。
御堂(みだう)のかたに法師どもまゐりたり。
夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身にしむ心ちす。
寝殿より御堂の廊にかよふ女房の追風用意(おひかぜようい)など、人目なき山里ともいはず、心づかひしたり。
心のままに茂れる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、虫の音かごとがましく、遣水(やりみづ)の音のどやかなり。
都の空よりは、雲の往来(ゆきき)もはやき心ちして、月の晴れ曇ることさだめがたし。
粗末な竹の編戸の中から、たいそう若い男が出てきました。
月の光の中なので、はっきりとした色合いはわからないのですが、上はつややかな光沢のある狩衣、下は濃い色の指貫を着て、いかにも名門の人であるようすです。
供はといえば、小さな少年一人だけを連れています。
その男は、遠くの田の中の細道を、稲の葉におりた露に濡れながら行くのですが、その間、笛をなんとも言えないほど上手に吹き興じていきます。
それを、ああ、すばらしい、と聞き分けることができる人もこんな田んぼの中ではいないだろうに、と思うにつけても、いったいあの若い男はどこへ行くのだろうと、それが知りたくなって、目で追いながら離れてついて行きますと、笛を吹きやめて、山のすぐ下の大きな門がある邸宅に入って行きました。
牛車の轅(ながえ)を載せる榻(しじ)に牛車が止まっているのも、都の街中よりはなにか目を引きつけるような気がして、そこにいた下人に尋ねてみますと
「これこれの宮様が、ここに御滞在中で、御仏事などがあるのでございましょうか」
と言います。
そのうち、御堂に法師たちがやって参りました。
夜寒の風にただよってくる、邸のどことも知れず香を焚いている「そらだきもの」の匂いも、なにやら身に沁むような気がします。
それだけではなく、寝殿から御堂への廊下を行き来する女房たちの衣に焚き染めた「追風用意」の香もただよい、人目のない山里であるにもかかわらず、細やかな気配りを忘れてはいません。
思うがままに草の生い茂った秋の野辺は、葉に載り切らぬほどの露にうずもれて、鳴く虫たちの声はそれをうらむがごとく、一方庭に引かれた遣水の音はゆったりと聞こえてきます。
このような山の辺の里の空は、都の空よりも雲の往き来も早いような感じで、月は、照っているかと思えばすぐに雲に隠れ、隠れたかと思えばすぐにまた明るくあたりを照らすのです。
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ひょうひょうと笛を吹きつつ、草の露に濡れながら銀色に輝く月明かりの道をゆく貴公子の姿はそれだけでうつくしいものですが、ここに描かれた情景に限らず、古文の中に出てくる夜は、電気というものを手に入れた現代の夜とはまったくちがうものだ、ということを常に頭に入れて想像しなければなりません。
つまり、夜の暗さがまったくちがうということです。
そもそも人間はすべての感覚器官の中で視覚をもっとも発達させた動物ですが、昼の明るさとは比較にならぬ夜の暗さの中で、視覚以外の感覚器官が活性化されるのかもしれません。
「そらだきもの」「追風用意」といったものに対する兼好の匂いの感覚も、暗さゆえに鋭敏になっているような気がします。