凱風舎
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《徒然草》  第三十八段

 

 

名利につかはれて、閑かなる暇(いとま)なく、一生苦しむるこそ、愚かなれ。

財(たから)多ければ身を守るにまどし。
害をかひ累(わづらひ)を招くなかだちなり。

身ののちには金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。
愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。
大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)の飾りも、心あらん人は、うたて愚かなると見るべき。
金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。
利にまどふは、すぐれて愚かなる人なり。

埋れぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ。
位高くやんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。
愚かにつたなき人も、家に生れ 、時にあへば、高き位にのぼり、奢(おごり)を極むるもあり。
いみじかりし賢人・聖人・みづからいやしき位にをり、時にあはずしてやみぬる、また多し。
ひとへに高き官(つかさ)・位を望むも、次に愚かなり。

知恵と心こそ、世にすぐれたる誉れも残さまほしきを、つらつら思へば、誉れを愛するは、人の聞きをよろこぶなり。
誉むる人、そしる人、ともに世に止(とど)まらず。
伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。
誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。
誉れはまたそしりの本(もと)なり。
身の後の名、残りてさらに益(やく)なし。
これを願ふも、次に愚かなり。

ただし、しひて智を求め賢を願ふ人のために言はば、知恵出でては偽りあり。
才能は煩悩の増長せるなり。
伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。
いかなるをか智といふべき。
可・不可は一条なり。
いかなるをか善といふ。
まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。
誰か知り誰か伝へん。
これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。
本(もと)より賢愚得失の境にをらざればなり。

迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくのごとし。
万事は皆非なり。
言ふにたらず、願ふにたらず。

 

名誉や利益のために、自分の身を使い、心静かで自由な時間もなく自分の一生を苦しめるのは、実にばかげたことです。

財産が多いと、そちらに気が行って、自分の身を守るということがおろそかになってしまいます。
財などというものは、害を招きわずらわしいことを引き起こすなかだちとなるものです。
ですから、自分の死んだ後に、北斗七星を支えるほどの金を積み上げたとしても、それを残された人にとっては、煩わしい事を受け取ることになるはずです。

愚かな人が、自分の目をよろこばせくれると言っているような楽しみも、また、つまらんもんです。
たとえば、大きな車だとか、肥えて立派な馬とか、あるいはきらきら光る金や玉の飾りも、心ある人は、うんざりすほどにばかげたことだと見るにちがいありません。
金なんて山に捨て、玉なんて淵に捨てるべきものです。
利欲のためにあたふたするなんてのは、きわめつけの馬鹿者のやることです。

ならば、消えずに残る名声を後世まで長く残すというのが、まことに望ましいこととなるにちがいありません。
しかし、位が高く、高貴な生れの人のことを、すぐれた人だと言うべきものなのでしょうか。
どんなにバカなつまらない人間でも、名家に生まれ、時運にあえば、高い位にも昇り、奢りを極めるものです。
一方、すぐれた賢人や聖人でも、自分は卑しい位にいて、時運に合わずに終わった人も多いものです。
ただただ、高い官職や位を欲しがるのも、利を求めることの次に愚かなことです。

そうなれば、知恵と心とが世にすぐれている、という名声を残したい、と思うものでしょうが、よくよく考えてみれば、名誉を愛する、というのは、実は、他人の評判をよろこぶ、ということです。
けれども、ほめる人もけなす人も、両方ともずっとこの世にいるわけではありません。
そして、その評判を耳にした人たちもまた、すぐにこの世を去っていくものです。
いったい、だれに対して恥を思い、誰に対して知られることを願うのでしょう。

また、誉れというのは、それがあるからそしりも生ずるものなのです。
自分の死んだ後の名声なんてものは、それが残ったからといって、まったく益にもなりません。
というわけで、そんなものを願うのもその次に愚かなことです。

それでも、名声のためではなく、ひたすらにただ知恵を求め、賢くなりたい、と願っている人のために言っておくならば、実は、知恵があるから偽りというものが生じるのです。
才能なんてものも、煩悩が積もり積もって膨らみ上がったものです。

それに、人から伝え聞き、学んで知るということは、ほんとうの智ではないのです。

では、どのようなものを智と言うべきなのでしょうか。
いいこと(可)といけないこと(不可)は、別のことではなく、実は一つのことなのだ、とわかることです。
また、どのようなことを善というのでしょうか。
(善と悪もまた同じように一つのことなのです)

真人には、人にわかるような智もなく、徳もなく、功もなく、名声もありません。
そのような人を誰が知り、誰が伝えるでしょう。
そのような真の人は、別にわざわざ、自分の徳を隠し、愚か者のようふるまっているのではありません。
はじめから、賢いとか、愚かだとか、何かを手に入れたとか、失ったとかいった、そんな相対的な境地にはいないからそうなるのです。

迷いの心をもち、名誉や利欲が要るものだと思ってそれを追い求めていれば、上に書いたようになります。
すべての事はつまらぬものです。
論ずるにもたりませんし、願うにもたらないものです。

 

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同じ「煩悩」でも、《色恋》についてはいたく寛容な兼好氏ですが、そのほかのこととなると、たいそう手厳しい。
ごらんおように、財産も、名誉も、才能も、皆、全面否定です。
言っていることは、まことにそのとおりで、おおむね私も同意見なのですが、だからといって、そんなにむきになって書かなくても、と思ってしまいます。
よほど虫の居所がわるいときに書いたのでしょうか。

ところで

愚かにつたなき人も、家に生れ 、時にあへば、高き位にのぼり、奢(おごり)を極むるもあり

とありますが、今も、そんな人が、世にはばかっておりますな。