《徒然草》 第三十二段
九月廿日(ながつきはつか)のころ、ある人にさそはれたてまつりて、明くるまで月を見ありくこと侍りしに、おぼしいづる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。
荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。
よきほどに出で給ひぬれど、なほ事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少しおしあけて、月見るけしきなり。
やがてかけこもらましかば、くちおしからまし。
あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。
かやうの事は、ただ朝夕の心づかいによるべし。
そのひと、ほどなく失(う)せにけりと聞き侍りし。
九月二十日のころ、ある方に誘われいただいて、夜明けまで月を見歩いたことがございましたが、途中、その方が、ちょっと思いだされたところがあって、取次を請うて家の中にお入りになりました。
荒れた庭には露がたくさんおりていましたが、そこに、ことさらに今焚いたというのではない香の匂いが、目立たぬようにほのかに香り、その人が、そんなふうに目立たずくらしているようすが、なにかこころひかれるような思いをつよくいだかせるようでした。
私を誘ったお方は、ほどよい時間を経て部屋をお出になられましたが、私はやはり、こんなふうに、ふと思い出した女人を訪ねて帰るということのようすが、優雅ですばらしいものに思えて、そのまま物かげからしばらく見ておりましたところ、部屋の女の人は、少し開いていた妻戸をもうすこし押し開けて、月を見ているようすです。
もし、かりに、その人がそのまますぐに、戸を閉めて部屋にこもってしまっていたら、どんなにかがっかりさせられたことでしょう。
客が帰ったあとまで自分を見ている人があるなどと、どうしてその人が知っているでしょう。
このようなことは、ただ、日頃からの、そのようにふるまうようなこころがけがあるからこそ、できるにちがいありません。
その女のひとはまもなく亡くなったとお聞きしました。
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これも有名な章段ですが、今、これを訳しながら、私、考え込んでしまいました。
私は、この女の人は、すばらしい月の夜、男が帰ったあとも、男のことを思いながらその二十日の月を眺めていたのだと思っていましたし、兼好もまた、そのように、だれに見られているとも知らず美しい月を眺めている女の人を、すばらしいと思っているのだと思っていました。
けれども、訳してみようとすると、どうやら、話は、そう単純なものではないらしいのです。
兼好は、この女の人のふるまいについて
「あとまで見る人ありとは、いかでか知らん」
と書き、そのすぐ後に、
「かようの事は、ただ朝夕の《心づかひ》によるべし」
と書いています。
私がテキストとして使っている「新潮日本古典集成 徒然草」には、本文の「朝夕の心づかひ」という語の脇に、
日常の心がけ
という語釈が付されていましたが、
≪このようなことは日常の心がけによるのにちがいありません≫
と書いても、なんだかしっくりしません。
そこで、辞書を引いてみたのですが、『旺文社古語辞典』では【こころづかひ】は
(いろいろ細かく)気を配ること
と書かれているだけで、これもあまりぱっとしない。
一方『岩波古語辞典』の【こころづかひ】の項には、このように書かれていました。
《将来起こりそうなことに対して心を使うこと。
自分をよく見てもらいたいとか、事をよく進めたい場合に多く使う》
① 気持ちの用意。神経の緊張
② 前以ての用心
③ 心がけ。注意
うーん、そうなのか。
へんだなあ。
《将来起こりそうなことに対して心を使うこと。
自分をよく見てもらいたいとか、事をよく進めたい場合に多く使う》
とか書いてあるけれど、兼好はその前に、
あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。
と書いてあるではないか。
それは「将来おこりそうなこと」を考えていないということではないのかしら。
これ、矛盾してないのかなあ。
うーん。
とはいえ、どの語釈もこのようなものであるのなら、この文章は、ちがった色を帯びてくることになります。
つまり、どうやら兼好は、この女人のふるまいが、たまたまその夜、月がうつくしかったからそのようにふるまった、というものではなく、男がふいに訪ねてきて帰ったあとは「やがてかけこもる(そのまますぐに戸締りをして部屋にこもる)」のではなく、逢いの余韻にひたるかに、しばらく外の面を眺めるということを、訪ねてきた男が帰ったあとの、そうすべき《たしなみ》として行なったことに感動しているのだ、ということになる。
そこで思い出すのは『伊勢物語』の有名な「筒井筒」の段です。
そこには、河内の国、高安の郡に新しい愛人ができた男が、妻が不愉快そうな顔も見せずに愛人のもとへ自分を送り出すので、ひょっとして妻にも新しい男ができたのかと、出かけたふりをして前栽のかげに隠れて、妻のようすをひそかにうかがい見る場面が出てきます。
ところが、そのとき、妻はきれいにお化粧をして、ぼんやりあらぬかたに目をやってもの思いにふけりながら、
風吹けば沖つしら浪たつた山
よはにや君がひとりこゆらむ
(風が吹くと沖に白浪が立つというほどの難所である、あの「たつた山」をこの夜半にあの人はひとりで越えているのでしょう)
と歌う。
その様子を見て、男は、妻を
かぎりなくかなし (このうえなくいとおしく)
と思って、もう河内の国にはいかなくなるという話です。
この話に出てくる妻も、夫に見られていることを知らずにいます。
そして、夫が不在であるにもかかわらず、この妻は、ちゃんとお化粧をして(「いとやうけさうじて」)、身だしなみをととのえ、もの思いにふけり(「うちながめて」)、夫を思う歌を詠んでいます。
ここでは「こころづかひ」という言葉はつかわれてはいませんが、人に見られていないところでも、見られているかのようにふるまうこの妻の姿は、いわば、『伊勢物語』が描く「理想の女」の姿であって、兼好は、そのような物語にある「理想の女」の姿を、今、現実に見たように、このとき思い、そして、そのことに深く感動したのかもしれません。