《徒然草》 第二十四段
斎王の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、おもしろき事のかぎりとは覚えしか。
経・仏など忌みて、なかご・染紙(そめがみ)などいふなるもをかし。
すべて、神の社(やしろ)こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。
ものふりたる森のけしきもただならぬに、玉垣しわたして、さか木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。
ことにをかしきは、伊勢・加茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
伊勢の斎宮に選ばれた皇女が、伊勢に下向する前に、三年間、斎戒のために籠る仮の宮である「野宮」にいらっしゃるご様子ほど、優美でおもむき深いものはない、と思われたことでした。
そのような斎戒の場所では、「経」や「仏」などという言葉を忌むため、仏像は厨子の中に安置するので「なかご」と呼び、お経は経文を写す紙が紺や黄に染められていることから「そめがみ」、などと、言い代えて言うのだという話にも興を覚えます。
おしなべて、神がそこにおられる神社というものは、捨てがたくしみじみと落ち着いた感じがするものです。
社をとりかこむ、どことなく古びた感じがする森のようすからして、すでに神聖な場所と思わせるのに、社殿の周囲に玉垣をめぐらし、社域にある榊(さかき)に、楮(こうぞ)の木の皮を剥いでその繊維で造った白い木綿(ゆう)を、幣(ぬさ)として掛けてあるのなど、いいなあ、と思わずにいられましょうか。
殊に趣深い神社といえば、伊勢神宮、加茂の社、春日大社、あるいは平野、住吉、三輪、貴布禰(きぶね)、吉田、大原野、松尾・梅宮の諸宮でしょうか。
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ここに名前の出てくる吉田神社というのが気になって調べてみると、どうやら吉田兼好の本家が社務職を世襲していた神社だったそうです。
また、平野神社というのもその分家が社務職を務めていたらしい。
もっとも兼好が生まれた家はその庶流だったそうなので、直接はかかわりはないのかもしれませんが、たぶん幼い頃からこれらの神社には親しんでいたのでしょう。
「ものふりたる森のけしきもただならぬに」という部分を読むと、鎮守の森を守るべく、明治政府の神社合祀令に反対した南方熊楠のことが思い出されます。
ただ鳥居と社殿だけを残して、ほとんどその社域を失った現在の多くの神社の衰微を見る時、森を失った神社は、いわば外堀を埋められた大阪城のようなものだったのだと思われます。