凱風舎
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また来ん春……

 

亡びてしまつたのは
僕の心であつたらうか
亡びてしまつたのは
僕の夢であつたらうか

 

記憶といふものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまひがするやう

 

 

― 中原中也 「昏睡」―

 

四年目の春が来て、けれども、失われたものは、何も戻って来はしなかった。

人が消え、町が消え、そして、そこに人が戻らぬただただ荒涼とした東北の「津津浦浦」に、雪は舞い。

 

大岡昇平は中原中也の評伝を書くにあたって、このような問いを立てたのだという。

 

中原の不幸は果して人間という存在の根本条件に根拠を持っているか。
いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか。

 

(大岡昇平『在りし日の歌』)

 

今日、中也の未刊詩篇を読んでいたら、その一行一行が、まるで、東北の被災者たちの心の声のように思えてきてしまった。

中也は生涯は不幸だった。
その不幸とは、彼が「詩人」であろうとし続けたから、持ったものではなかったのか。
なのに、そんなことを思いもしない東北の人びとが、なぜ、いつまでたっても、そんな不幸な「詩人」のようであらねばならないのか。

 

あゝあ、こんなに、疲れてしまつた……
――しづかに、夜の、沈黙(しじま)の中に
揺(ゆ)るともしないカーテンの前
煙草喫ふより能もないのだ。

揺るともしないカーテンの前
過ぎにし月日の記憶も失せて

                   (「深更」)

なんという寒々とした春だろう。
なんという寒々とした国だろう。

そういえば、中也の『在りし日の歌』にはこんな詩もあったっけ。

 

また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじゃない

     (「また来ん春……」)