うぬぼれ
うぬぼれた国で興隆した国はない。
― 「きけわだつみのこえ」 中村徳郎 ―
今朝の朝日俳壇の稲畑汀子選に
戦なき古希の日本や梅真白 大井みるく
という句がとられていた。
杜甫は、人生七十古来稀なり、と歌ったが、なるほど、人の生よりも戦をせず七十年を過ごした国の方が、まさに「古来稀」というものであろう。
大唐帝国の最盛期を生きた杜甫ですら、その晩年は安禄山の乱の中で過ごしたのだった。
そんな古来稀な平和を享受してきたこの国が最後に経験した戦争においては、学徒出陣の名のもとに、前途有為の多くの学生たちも死んでいった。
そのような学生たちの手記が数多く載せられている「きけわだつみのこえ」には、彼らの、自らと祖国の運命へのしずかな省察に満ちた言葉が多く収録されていてせつなくなる。
今日引用した言葉を残した中村徳郎氏は東大地理学科の学生だった。
やがて両親のもとへ、
「昭和19年10月21日、比島(フィリピン)レイテ島において戦死せらる」
の紙切れ一枚だけが入った遺骨のない骨壷が届けられたという。
うぬぼれや思いあがりが身を滅ぼすこと、人も国も同じである。
そんなことさえわからぬ愚か者が、いつのまにか、またこの国で幅をきかせはじめている。
彼らは戦死者を「英霊」と呼び、この国は美しいという。
「英霊」とは権力者がいう国の「生贄」のことであった、とは先日の狼騎氏の本の紹介にあった言葉だ。
生贄の最期の声を耳にした者は、そもそも犠牲を捧げることに躊躇するものだ、と孟子は言っている。
その声を聞く耳を持たぬ者が、生贄と生贄をささげることを美化するのだ。
それにしても
うぬぼれた国で興隆した国はない。
という、すこし歴史を学べばすぐに気づくこんな自明の理がどうしてわからぬのであろう。
「分別のないものと争うことは無益です。」
今朝の「ラジオ・アーカイブス」で、死んだ山本夏彦はそう言っていたが・・・。