もっとも甘美な記憶
私は四つか五つの頃、炬燵に当たりながらよく転寝(うたたね)をした。するとお袋が寝間着に着換へさせに来て、寝床に抱いて行つて横にする。それから、寝間着の裾を足首のところまで引つ張つて揃へてくれる。私は夢うつつにそれを肌に感じてゐる。何とも云へず気持ちがいい。ついでに、お袋が掛布団の肩のあたりを、三つ四つ叩けば尚さら気持ちがいい。
― 井伏鱒二 「炬燵の話」 ―
このごろ私の部屋の玄関の三和土(たたき)にはちいさな靴がおいてある。
こないだ遊びに来た俊ちゃんのところのうたう君の靴だ。
うたう君は来たときは靴を履いて自分の足で歩いてきたのに、帰りには眠ってしまって、お父さんかお母さんに抱かれて帰ったのだ。
うたう君はまだ小さいから抱かれている時もほんとうにずっと眠っていたのかもしれない。
それも、もちろん、しあわせなことにはちがいない。
けれど、赤ん坊の頃、母親の胸に抱かれて乳を吸ったり、背中におぶわれて眠ったこと同様、それがどんなに気持ちいいことであったにせよ、私たちはそれを自分の記憶として持つことはできない。
ところが、もう少し大きくなって、眠ってしまった自分が、「起きなさい」という母や父の声はたしかに聞こえているのに、それでもやっぱり眠ったまま、父や母に抱きかかえられて寝床に運ばれているのを感じていた時間の方は覚えている。
たぶん、それは、私たちが記憶している中で人生のもっとも甘美な時間だ。
・・・などということを勉強に来ていた愛ちゃんに話していたら、愛ちゃんは、こんなことを言った。
「私は、車だな。
車の中で眠ってしまって、お父さんに抱きかかえられて家の中にはいるとき。
目は覚めてるんだけれど、でも眠っていて。
それが一番、なんか気持ちよかった」
ああ、そうだろうな、と思った。
私には経験はないが、車から眠りながら抱きかかえられて家に入るのは、ほんとうに気持ち良さそうだ。
それにしても、やっぱり井伏鱒二の文章はすばらしいなあ。