破れ鍋に綴じ蓋
愛する女と幸福に暮らしてゆくには一つの秘訣がある。それは、その女を変えようなどと考えないことである。
― シャルドンヌ 「愛をめぐる随想」 (神西清 訳)―
あれは何年前の映画でしたか、チャン・イ―モウ監督の「初恋のきた道」はなかなかよい映画でしたなあ。
村にやってきた新任の小学校の先生に恋する主演の若きチャン・ツィイーの可憐さ!
(まあ、あの走り方と言ったら!)
しかし、私にとってあの映画で一番印象に残っていることは、実は「どんぶりの修繕」なのです。
たいがいの筋は忘れたのですが、大好きなその先生に自分の作った料理を食べてもらう日に、町へ呼び返された先生は来られなくなるのだが、それでもその料理を食べてもらおうと、どんぶりに蓋をして風呂敷(?)に包んで彼女は先生を追いかけて駆ける。
駆けて、駆けて、駆ける。
でも、追いつけないんですな。
そして途中で転んでそのどんぶりが割れてしまう。
というわけで、村から先生がいなくなったあと、すっかり憔悴してしまった彼女のために、母親が割れた瀬戸物を修理する行商人を呼んでそのどんぶりを修繕してもらう場面があった。
いやあ、私、びっくりしました。
そうかぁ、割れた瀬戸物も直せるんだぁ!
そう思ったものです。
・・・・なんてことを思い出したのは月曜日のことでした。
その日の新聞によれば、ことわざにいう
「われなべにとじぶた」
は正しくは
破れ鍋に綴じ蓋
と書くのだ、と書かれていました。
私、昔から、てっきり、これは
割れ鍋に閉じ蓋
と書くものだと思っていた。
もちろん「われなべにとじぶた」という言葉が、誰にだってそれ相応の結婚相手はいるもんだ、って意味は知ってましたが
「どんなひどい鍋でも、それを閉じる蓋があればなんとか格好は付く」
みたいな感じなのかと思っていた。
そもそも、「とじる」とあって蓋とくれば、普通は「閉じる」と思うものです。
蓋を「綴じる」なんてこと、イメージも湧かなかったんですな。
というわけで手元のことわざ辞典を引いてみると「破れ鍋に綴じ蓋」の項にはこう書かれておりました。
われた鍋にはそれにふさわしい修繕した蓋があるものだ。どんな人にもそれに相応した手頃な配偶者があるというたとえ。
うーん、やっぱり「とじぶた」は「修繕した蓋」のことでした。
もっとも、この蓋は木の蓋なのかもしれませんが、でも、私、思わず「初恋のきた道」を思い出したことでした。
はてさて、私、「とじぶた」も見つからないほどの「破れ鍋」だったらしいのですが。
(まあ、実は自分を「破れ鍋」だとか「綴じ蓋」だとか思えないから、このごろの人は結婚しないのかもしれませんが)