凱風舎
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在宅介護

 

 

I couldn’t forgive him or like him, but I saw that what he had done was, to him, entirely justified.
It was all very careless and confused.
They were careless people.

ぼくは、彼や、あるいは彼のような人を許すことなんてできなかった。けれども、ぼくが目にしたものは、彼の中では自分がやってきたことが完全に正当化されているということだった。それは、まったくの話、とんでもなく軽率で、でたらめなことだった。
彼らはケアレスな(注意の欠けた)人間なのだ。

 

― F・スコット・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」―

 

 

 

 

 

ドアを開く音がする。
誰だろうと思って、布団から顔を出してみたら、愛ちゃんだった。
「二日酔い?」
と聞くから布団の中からうなづくと
「昨日はたいへんだったんでしょ。片付けに来てあげました」
と言って笑っている。
あなたはエライ!
でも私は頭がイタイ。

私がもぞもぞ布団から出て着替えている間に、愛ちゃんはもう流しで食器を洗ってくれている。
洗いながら
「この部屋、こんなにたくさんコップがあったんだぁ」
感心している。
それも当然で、誕生会の昨日は次々人が来て、しだいに部屋に人が入りきれぬほどになり、戸棚の食器のほとんどすべてが総動員されていたのだ。
いやはや。
それにしても、なんとテキパキと片付けてくれるんでしょう!
私も一応手伝っているふりをする。
でも、頭がイタイ。
途中、コーヒーを飲んでは休憩していた。
洗いものを終えた愛ちゃん、今度は部屋の隅々まで掃除機をかけてくれる。
仕上げに、並べ直した机を拭き終わったときには、彼女の作業時間はゆうに一時間を超えておりました。

まったく女の子ぐらいエライものはありませんな。
実に、わたくし、思いもかけぬ介護ヘルパーに来ていただいたようなものです。
私ひとりでこれをやっていたら何時間かかったのでしょう。
しかも、そのやり方はずっとぞんざいだったはずです。
片付けと掃除をしてくれた愛ちゃんはそのあと3時間ほど勉強をして帰って行きました。
これもエライ!

人生を「前向きに生きる」ということが称揚されています。
けれども、実は生活というものの大半は「後片付け」で成り立っています。
後片付けがあってはじめて明日もまた今日と同じ生活が営めるのだということをほんとうに知っているのは実は女の人なのでしょう。

後片付けを人に押し付けて平気な人たちのことを評して、彼らはcaralessな人たちなのだ、とフィッツジェラルドは書いています。
第一次大戦後のバブルに沸くアメリカ社会で幅を利かせていた人たちのことです。
そして実は私もまた多くの場合そのcarelessな人間でありがちです。
たぶんそれは、私の生き方に「生活」、あるいは「活動」というものがないからです。
あるいは、それらの本質が身についていないからです。

どうにか、そうでない人間になりたいと思ってはいるのですが。
でないと、私もまたあのA氏やその政権を支持する人たちと同じになってしまいます。