唖者
唖者のことばをきく耳を周囲の人が持っているとき唖者は唖者ではない。
唖者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて唖者である。
唖者とはひとつの関係性だ。
― 真木悠介 「気流の鳴る音」―
唖者(あしゃ)とは口のきけない人のことである。
けれども周りにその人の意思を聴きとる者がいるなら唖者は唖者ではない、と真木悠介氏はいう。
だから
唖者とはひとつの関係性だ。
という。
たとえば赤ん坊がいる。
赤ん坊は言葉を話さない。
けれどもおかあさんはかならずや自分の赤ちゃんの意思を正確に察するだろう。
それはおかあさんが子供の「ことば」を「聴く耳」をもっているからだ。
外国へ行ってこちらの話が通じないのは、こちらの語学力の不足もあるだろうが、多くはむしろ相手がこちらのつたない英語を聴きとろとしない者のときだ。
相手が聴く姿勢さえ持ってくれれば、こちらは身ぶりだけでも意を通ずることができる。
日本の田舎の英語を知らないおばあさんでも困っている外国人がいれば片言の日本語でさえその意を酌み取ることはできるだろう。
グローバルな時代だという。
だから人にこちらの意思をアピールする力が必要なのだという。
プレゼンテーションスキルだなどという。
それも大事だろう。
けれどほんとうに大切なのは発信する力ではなくむしろ受信する能力なのではないか。
そして今は、私たちの子供のころと比べても、社会全体が声持たぬ者の声を聴こうとしなくなっているのではないか。
たとえば、私たちの多くはテレビの天気予報に慣れてその日の空から明日の天気を予想する能力を失っている。
かつて(そしてたぶんは今も)漁師はその舟を出す前に空を読み風を聴くだろう。
「日和見」と聞けばなにやら優柔不断なよくない態度のように思われるが、「日和見」は漁師にとってもっとも大切な基本的態度であったはずだし、「日和見」をせぬ漁師はいつか嵐の中で遭難するだろう。
同じく篤農家は田や畑から、その日その日の作物たちの声を聴くだろう。
さまざまな職人はその相手とする材料の手触りから目に見えぬ日々の変化を読み取るだろうし、接客業の達人も顧客のわずかな表情態度から客の欲していることを推察しているだろう。
そしてたぶんは詩や歌や俳句を作ることもまた、もの言わぬ自然に耳を澄まし、その声を聞き分ける行為であるはずだ。
プロと呼ばれる人たちはみな、目に見えないものを見、耳に聞こえない声を聴くことのできる人のことだ。
マニュアルに従うしか方途を持たぬものを素人というのだろう。
ところで今日本は、聞こえてくる声さえ聞こうとしない者が政権を担っている。
彼にあるのは己の中にあるマニュアル通りに進むことであって、それを「ぶれない」と言うてイバッテいる。
「政治の劣化」とはそのような、聞こえぬ声を聴く能力を持たぬ素人がそれをおこなっていることを指すのかもしれない。
そんな政治がおこなわれている今、日本国中に唖者が溢れている。