「残侠」 司さん
残侠を我が懐に冬の月
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俳句ありがとうございました。
今日届いた夕刊の一面を見て、
「えっ!」
と思わず声をあげてしまいました。
高倉健の訃報が一面に大きく報じられていたからです。
試験勉強に集まっていた中学生たちがびっくりして私の方を見ましたが、中学生たちの誰一人として高倉健を知っている者はいませんでした。
スターというものは、その最盛期に青春を過ごした者たちにしか共有されないものなのかもしれません。
過ごした時代によってまるでちがうものなのです。
とはいえ、三省堂国語辞典第7版の「といったら」の項には、このような例文が載せられていいます。
といったら [と言ったら]
①それについてだれもが認めることを言うときに言うことば。と言えば。
健さん―――大スターだ。
もっとも、辞書にこう書かれているからといって、健さんが私たちにとって「大スター」だったどうかは別の話です。
むしろ、健さんは健さんであって、(つまりは固有名詞をもった存在であって)ほかの普通名詞をもって語る対象ではないような気がします。
ですから、もし司氏が辞書の編集者なら、たぶん
健さんっといったら「唐獅子牡丹」だ。
もしくは
健さんといえば「花田秀次郎」だ。
といった例文にしたかもしれません。
司氏の今日の俳句を読んで、高校生の頃、高倉健のLPを持って私の部屋にやってきて、彼の歌を聴きながら縷々語っていた司氏のことを思い出しました。
親の意見を 承知ですねて
曲がりくねった 六区の風よ
積り重ねた 不孝の数を
なんと詫びよか おふくろに
背なで泣いてる 唐獅子牡丹
背負った唐獅子はないけれど、健さんの訃報を聞いてこんな歌がすぐによみがえってしまうのは、わたしらの中ではひょっとしたら司氏と私なのかもしれません。
すてぱん