凱風舎
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小春日

 

 いちまいの皮の包める熟柿かな

 

 

             野見山朱鳥

 

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毎週日曜日の昼めし時になると
「一週間のごぶさたでした」
と笑顔で言っていたのは、《ロッテ・歌のアルバム》司会の玉置宏でございます、だった。
・・・・などと、いうことを書いても、わかるのは、わが同年輩の方たちだけなのだが、気が付いたら、この「通信」も、もう
「十日に余るごぶさたでした」
になってしまった。

 

さて、この十日間あまり、何をしていたか、というと、何も思いだせない。
部屋にいた。
それだけである。
魚や肉はときどき買いに出たが、たばこは買い置きがあった。
よって、部屋にいた。
で、部屋で何をしていたか。
それが思い出せない。
要はぼんやりしていたのだろう。
ヨワッタモノダ。

何なんだろう、クサってるなあ!
などとは思うが、身内から力が湧いてこない、気力が出ない。

日常、人は身体的努力をいやがるが、それにもまして精神的努力を嫌うものである。

ショーペンハウエル氏がそう書いている。(「知性について」)
どうやら私もそうなっていたらしい。
これは、末期である。
(もちろんこれはマッキと読むべきもので、まちがってもマツゴと読んではいけない)

さて、卓の上の柿は、写真のように十日の沈黙のうちに、かくまで熟した。
(野見山朱鳥の俳句もなんとすばらしい!
なにしろ熟した柿の皮はオブラートよりも薄い)

この柿、 食せば、たいそう甘いにちがいない。
けれども、あまりに熟せば柿もやがて饐(す)えてすっぱくなる。
この十日、わたくし、なに熟思していたわけではない。
けれども、熟柿と熟思、音も同じであるが、熟しすぎれば饐えてしまうこと同じであろう。
そもそもがさして旨いものでもなかった。
それがまして口あたりが悪くなる。

テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばっかんさなだ)を敬虔に編み――

中也さんも『在りし日の歌』の最後から二番目の詩でそう言っている。
今日は小春。
今からひさしぶりに外を歩いてきます。