凱風舎
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秋日和

 

私は創造はしません。ただ見るのです。作る事のできるのは見るが故です。

 

― 「ロダンの言葉抄」(高村光太郎 訳)―

 

今日買った花束は、キクにリンドウ、ワレモコウ、それに真っ赤なケイトウまで入っていて、実に秋らしい花束でした。
花屋の帰り、道端の「はらりとおもき」背高のススキも折り取って来たので、卓の花瓶はいやましに秋めいております。
勝田氏から送って頂いたのはもう全部平らげてしまったのだけれど、あらたに買い込んでおいた柿もすっかり柿色に熟して、いやはや、実に豊かな気分です。

というわけで、今日のお昼は秋刀魚でした。

 


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ちなみにこの写真は、先日サンマを食べたときのイタズラです。

大根おろしでヤギコを作ろうとしたのだけれど、醤油の色が思いのほかに薄くて、ずいぶん昔に死んでしまった彼女のお兄ちゃんの「イカちゃん」になってしまいました。

「イカちゃん」はヤギコに輪をかけたバカ猫で、ある秋など、サンマを焼いているコンロの上に跳びのって、自慢のひげを焼いてしまい、彼のひげはしばらくの間トランプの王様のひげみたいに先っぽがくるくるっとカールしておりました。
そのバカっぽさ加減がいかにも「イカちゃん」らしくて実はなかなかかわいかったのですが・・・。

あいつ、あの世でも、きっと、くるくるひげでイバッテいるにちがいありません。

 

ところで、今日は「彫刻」関連で、ロダンの言葉を引用してみましたが、これに似た言葉はこの本の中で実に何回も出てきます。
きっと芸術というものの本質は、ものを虚心に「見る」ということの中にあるのです。
かんたんに見えて、それはほんとにむずかしいことです。

そして、言うまでもないことながら、もちろん、私は何ものも見てはおらんのです。
私のやったことと言えば、世間で通用する猫という《類型》にしたがって、大根おろしを固めてみただけのことです。

たぶん、ロダンに限らず、芸術家や哲学者、あるいは宗教家と呼ばれると人たちは、ものを先入観なしに「ただ見る」ことのできる人なんだろうと思っています。