凱風舎
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開けても開けても

 

「月光」旅館

 

開けても開けてもドアがある

 

              高柳重信

 

 

二行書きでもこれは俳句である。
そして、なんだかコワイ俳句である。
それというのも
「開けても開けてもドアがある」
と聞いて、それは、かの注文の多いレストラン「山猫軒」のことだろう、と思ってしまうのは私だけではあるまいからだ。
あの「注文の多い料理店」はこわい。

けれども、この「『月光』旅館」も「開けても開けてもドアがある」らしい。
そして、そのドアを開けてたどりつく、どの部屋もどの部屋もがらんと誰もいなくて、ただ青白い月の光が窓から射しこんでいる・・・。
などと、こんなふうにイメージすると、この「月光」旅館も、かなり、こわい。

だが、考えてみれば、生きているということはきっと「開けても開けてもドアがある」ということなのだ。
ぼくらは皆、なにか目的があって、そこにたどりつくことを目指しているのだけれど、そこは実は閉ざされた場所ではなく、必ずや、そこになにやらまた新しいドアが付いているのが見つかる。
進学にしろ、就職にしろ、結婚にしろ、それはあるときの目的ではあっても、そこは人がたどりついたままの姿で居続けることはできない場所だ。
気がつけば必ずそこに新しいドアができている。

逆に、もしそのたどり着いた場所がほんとうの行き止まりの場所で、新しい場所へ通じるドアがどこにもないとしたら、それはもっとこわいのではなかろうか。
たどりついても、また同じドアからしか出られない場所――それはとてもさみしい場所だ。

今日「イスラム国」の戦闘員になるためにシリアに行こうとしていたという大学生がいたという話をニュースで聞いたとき、ひょっとしてその男には、ずっと同じドアからの出入りしかできないそんな場所しかなくて、その行き詰まりか感から、逆に「究極のどん詰まりの場所」として、シリアとか「イスラム国」をイメージしたのかもしれないと思ったりした。

開けても開けても同じ所にしか戻れない、そんなドアしかない場所こそが本当に怖い。
もっとこわいのは、はいってきたドアさえ閉ざされたどん詰まりの場所だ。

はてさて、あすは皆既月食らしいが、白い雲なんかも流れて、今夜もなかなかいい月夜だ。

ところで、ほんとうの「月光」旅館とは、ドアを開ければそこに必ず新しい何かがあったり見知らぬ誰かがいたりして、そこに入った人は、そこにあったものやそこにいる人たちとの交わりの中で、ふと気づくと月光の向うにまた新しいドアが見えてくる場所なのかもしれない。

「月光」旅館
開けても開けてもドアがある

今夜「月光」旅館は繁盛しているでしょうか。