啄木
何となく顔がさもしき邦人(くにびと)の首府の大空を秋の風吹く
石川啄木
明治四十三年(1910年)の十月、石川啄木は「九月の夜の不平」と題された三十四首のうたを雑誌『創作』に発表した。
そのうちの多くは歌集『一握の砂』の中に、三行分かち書きのわれわれがよく知っている啄木短歌の形に変えられ、歌集のさまざまな場所にバラバラに収められている。
今日の引用の短歌は『一握の砂』に収められなかった歌のうちの一首である。
この歌の中の、
何となく顔がさもしき邦人の
という言葉に、それが今から百年以上も前に歌われた歌の言葉とも思えぬかなしい共感を抱いてしまうのは不幸なことである。
だが、そう思う機会が多い。
明治四十三年という年がどんな年だったかと年表を広げれば、五月に大逆事件で幸徳秋水らが逮捕され、八月には韓国併合が発表された年である。
一連の歌はその年の九月の夜の歌である。
この歌に歌われている日本人への違和(あるいは「不平」)は、このような当時の日本の社会を包んでいた空気へのそれであろうし、今日引用した彼の短歌にどこか共感するものが、もし私たちの中にあるとすれば、それもまた、たぶん啄木の歌から100年たった今日の日本にただよう、あの頃と同じような空気のせいだろう。
たとえば、関西と北海道の二つの大学に元朝日新聞の記者だったというだけで、その教授や講師をやめさせなければ
「天誅として学生を痛めつける」
などという脅迫文を送りつけ、そのうちの一つの大学では、あろうことか、実際に教授が辞職するという事件が起きている。
しかるに、
「テロにはけっして屈しない!」
と見栄を切っている政府の中の誰一人としてこれについて厳しい非難あるいは批判の言辞を発した者のあることを私は知らない。
それどころか在日韓国・朝鮮人の排斥を唱える「在特会」なるヘイトスピーチを主宰している組織の幹部と仲良く写真を撮って恬として恥じない者が国務大臣(国家公安委員長!)に成りおおせてさえいる。
そして、そのような人物が一人ならず閣僚であることの問題性をテレビも新聞もまともに報道しない。
これは大逆事件にも韓国併合にも何の反応も示さなかった(あるいはそれを「当たり前」のこととしてむしろ積極的に受け入れていた)あの頃の日本人と同じではないのか。
今の私たちの住んでいる国はそんな国だ。
『創作』に載せられ『一握の砂』に収められなかった「九月の夜の不平」の歌のいくつかを写してみる。
つね日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり
時代閉塞の現状を奈何(いか)にせむ秋に入りて斯(か)く思ふかな
地図の上の朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつゝ秋風を聴く
明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも
当時啄木は二十四歳。
この一年半後、満二十六歳で彼は死ぬ。
その生前に出された歌集『一握の砂』には「九月の夜の不平」から改作されたこんな二作も収められている。
邦人(くにびと)の顔たへがたく卑しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ
大海の
その片隅につらなれる島島の上に
秋の風吹く
今また冷え冷えと秋の風吹くこの列島であることです。