凱風舎
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生死を分けたのはちょっとした差。 それは運だ。

 

― 小林尊志 (信州大医学部付属病院災害派遣医療チーム【DMAT】医師)―

 

運、なのだという。
昨日の新聞に、御嶽山の遭難救助にあたっているDMATの医師がそう言った、と書いてあった。

運、なのだ。
そのとき自分がどこにいたか。
飛んできた大きな噴石がどこに落ちたか。
それがどのように砕け、どのように飛び散ったか。
落下して来た石のたった数センチの差。
その数センチの差で、隣の人が死に、自分は生き残る。
一人一人の登山者に経験や知識の有無の差というものはむろんあったろう。
けれどもそんなものさえほとんど無化してしまうほどの、人為を超えた圧倒的な自然の威力。

運、とは、人間の求める合理的な因果の法則を拒むような出来事に対して、それでも人が納得を求めようとするときたどりつく最後の理由付けだ。
一方が命を失い他方が助かったことに何の合理的理由はない。
理由は、運、だ。
そう思わなければ、当人も残された者たちも事態を受け入れられない。
あるいは、そう思うことでしか受け入れられないような不条理が人には起きるのだ。

それは日ごろの信仰に因るのでもない。
あるいは、ふだんの善行、悪行に因るのでもない。
それが因るのは、ただの気まぐれな、そのときそのときの運だ。
そのようなものの上を私たちは歩いている。

DMATの医師が語ったという、運、という言葉を新聞で見たとき、私ははじめてこの言葉の意味がわかったような気がした。
そもそも私は、これまで、運、などということをまじめに考えたこともなかったのだ。
それは、私がそのことについて考えなければならないような切羽詰まった事態に今まで巻き込まれずにいたということだろうし、あるいは別の言い方をすれば、自分がそのような事を考えずに済むほど、幸運に暮らしてきたということだろう。

たぶん人生とは常に細い切岸の上を歩いているようなものなのだろう。
けれども人には、そのことに気付かずにいられるしあわせも与えられているのだ。

昨日そんなことを考えていた。

 

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根神社にある御嶽大神の碑