凱風舎
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さびしさ

 

ああ 心のある さびしさ

 

― 高田敏子 「秋雨」―

 

ヤギコは雨を見るのが好きだ。
今日も窓際の机に坐ってじっと雨の降る外を見ていた。

 

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猫、というものは、どうやらみんなそういうものであるらしく、そんな雨の日の猫の姿を書いた詩が高田敏子にある。

 

 

  秋雨    高田敏子

 

縁先に坐っている
ネコの後姿
ネコは形よく坐っている
外は雨
格子戸越しの雨の音が
ネコの後姿をぬらしている

生んだ子猫は
次々にもらわれていって
独居の女のような 後姿

形よく坐っていても
ネコの耳はときどきぴりっと動く
尾の先は小さく縁をたたいている

ああ 心のある さびしさ

 

高田敏子はそんな雨の日の猫を描いて、最後にぽつんと一行

ああ 心のある さびしさ

と書く。

さて、この印象的な一行はいったい誰のことを言っているのだろうか。

一見それは雨を見ている猫のことを言っているようにみえる。
けれども、そもそも猫に心はあるのかどうか。

たぶんそんなものはないのだろうと私は思う。
すくなくとも、過去を思ってさびしがるようなそんな心はないのだと思う。
彼らに感情があったにしても、それは一瞬一瞬のものであって、すぐに忘れ去られるものだ。
でなければ、あれほどまでに人を羨ましがらせる自由さを彼らは持ってはいないだろう。

雨を見ている猫はさびしがってはいない。
ただ無心に雨を見ているだけだ。

にもかかわらずその後姿に作者はさびしさを見る。
それを見てしまうのは人である作者に「心」があるからだ。
だからネコの後姿に過去を重ね合わせ、人間を重ね合わせ、思わず

独居の女のような 後姿

などとつぶやいてしまう。
そうなるのは、作者がどうしても「心」が消えない人間だからだ。
たぶん雨を見る猫の後姿が「独居の女」に見えるのは、子どもたちが大きくなり次々と独立していって独りになってしまった自分の姿をそこに重ねるからだ。

ああ 心のある さびしさ

この最後の一行は、雨を見ている猫のことを言っているのではない。
作者自身のことを言っているのだ。
それは、もちろんわたしたち人間すべてのことなのだ。
だからこの詩句がわたしたちの心に響くのだ。

これは、わたしたちが、猫ではなく心ある人と生まれたことの「業」の発見なのだ。
それがこの詩を詩にしている。

そして猫は・・・・。
猫は無心に雨を見ているだけだ。