「じっまな!」 北川司さん
「私が一番きれいだった時」を検索すると、歌手らしいおっさんがそれを朗々と歌うのを観ることができる。
おっさんも聴衆も「反戦」を認識している雰囲気が何とも気持ち悪い。
私なりに解釈を試みてみると・・・
解釈A:一番の前に(世の中で)を付けてみる。
これは白雪姫の妃の世界だ。
不気味だ。
解釈B:一番の前に(私の人生で)を付けてみる。
こちらの方が妥当だ。
きれいだったのに戦争でゴタゴタしてたから周りがちゃんとそのきれいさを認めてくれなかった、という怨み節に聞こえる。
或いは、毎朝鏡を見て、老いていく自分の嘆き節か。
いやいや、この人は今でも自分の美貌に自信をお持ちなのではあるまいか。
自分がきれいだとか、きれいだったとかまともな顔をして言う人に私ついぞお目にかかったことがない。
美川憲一なら「あーら、あたしは今でもきれいだわん」くらい洒落で言うかもしれないけれど、文として残すということは恒久化するということだ。
毎日呟いてもおかしくないということだ。
若かった頃をダシにして、日々自分がきれいであることを確認してるんじゃないのー、もしかしてだけどぉー。
とにかくこういう自慢たらしいことをいうと、金沢では「じっまな!」と批難される。
女心しらず詩を詠む秋の空 おまえに云うてもわからんわい
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おたよりありがとうございます。
「ジマ」=「じまらしい」はそもそも「自慢らしい」ですな。
身のほど知らずに態度がデカイ人に向かって言われます。
ご承知のように、これは私のもっとも陥りがちな態度でございますが、それが種々の誤解を生むらしい。
そこで書いておきますが、私は「わたしが一番きれいだったとき」という詩を別段けなしているわけではありません。
ただ、あれが「反戦詩」として読まれるのはおかしい、と思っているだけです。
(理由は…と書きはじめたら長くなりそうになったのでやめます)
ついでに言っておけば「自分の感受性くらい」と「倚りかからず」は、たぶん新しい《道徳》の教科書の口絵のところに載りそうな実に「正しい言葉」ではあっても、それはけっして詩ではないだろうと思うのです。
すてぱん