団栗
「一体そんなに拾って、どうしようというのだ」と聞くと、面白そうに笑いながら、「だって拾うのが面白いじゃありませんか」という。
― 寺田寅彦 「団栗」―
秋になってわたしの机の上には、いつもの年と同じようにドングリが転がっている。
別にどうということもないのだが、道を歩いていて、たとえばそれが帽子をかぶったまだ青いドングリだったりすると、ついつい拾ってポケットに入れてしまうのだ。
それが机の上に置いてある。
そして増えてくる。
もっとも子供らはそんな机の上のドングリになんか一向に気を留めない。
たぶんもっと小さかった頃にはみんなよろこんでたくさん拾ったんだろうに、と思うのだが、中学生ともなればまったく無関心だ。
それでも、だんだんドングリが増えてくるので、今日は三年生でたった一人の男子であるトモヤ君が
「先生、こんなん拾ってどうするんですか」
と聞いてきた。
たまたま、今日はちょっと離れた神社でめずらしくスダジイの実を拾ったので
「食べるんだよ」
とニヤニヤして答えると
「えーっ!ドングリって食べれるんですか」
と驚いている。
「うまいぜ。食うか」
と聞くと、「うん」というので、拾ってきた五個のシイの実をフライパンで炒ってあげて一緒に食べた。
炒ると中の実が透明に澄んで、なんというか、クリとギンナンを足したみたいな味がする。
私が一つ食べたあと(まったく、50年ぶりだ!)おそるおそる口にしたトモヤ君は
「うん、うまい!」
と言って残りの三個も食べた。
けれども、ドングリを拾うというのは、けっして、食料にしよう、などというケチくさい実用のためではない。
むしろ無用の用。
今日引用した寺田寅彦に「団栗」という短編小説の中で十九歳の妻が言うセリフこそが当たっている。
「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」
何の役にも立たないけれど、おもしろい。
それだけの話だ。
「団栗」という小説は妊娠した妻が結核で血を吐いたあと、療養で小康を得たとき、二人で植物園に出かける話である。
そこで、妻が道脇の落ち葉の中に団栗を見つけて拾い始めるのだ。
妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見る間に左の掌(てのひら)に一杯になる。余も一つ二つ拾って向うの屋根に投げるとカラカラと転がって向側に落ちる。妻は帯の間からハンカチを取り出して膝の上に拡げ、熱心に拾い集める。
そのあとの部分で、今日冒頭に引用した言葉が出てくる。
それにつづく最後の段落はこんなふうに始まる。
団栗を拾って喜んだ妻も今はない。御墓の上には苔の花が何遍か咲いた。山には団栗も落ちれば鵯(ひよどり)の啼く音に落ち葉が散る。今年の二月、あけて六つになる忘れ形見のみつ坊を連れて、この植物園に遊びに来て、昔ながらの団栗を拾わせた。
争われぬ母親の遺伝だろうか、娘もそれを非常に面白がる。
拾い集めて父親の帽子の中にだんだん増えていく団栗を見ながら「頬を赤くして溶けそうな顔」をしている娘に父親は
争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかの隅からチラリとのぞいて、うすれかかったむかしの記憶を呼び返す。
そして小説の結び。
亡妻のあらゆる短所と長所、団栗の好きな事も折鶴の上手な事も、なんにも遺伝して差支えはないが、始めと終りの悲惨であった母の運命だけは、この児に繰返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。
抑えた文体がむしろその悲しみの深さをしみじみ感じさせる佳作だ。
スダジイはこんな変な袋に包まれている団栗です。
どこかで見つけたらためしに炒って食べてみてください。
おいしいです。