暑い日の読書
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることがない毎日でした。
― エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」(土屋哲 訳)―
塾がおやすみの昨日本屋に行ったら、
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。
と腰巻に書いてある文庫が平積みにされていた。
題は「やし酒飲み」。
岩波文庫。
なんじゃろか、これは。
そう思ってページを開いたら、なるほど、これが冒頭の文章である。
でも、なんだか変である。
何が変、と言って、ヘンなのはその次の文章である。
わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることがない毎日でした。
ヘンじゃない?
じゃあ、続けて書き写してみますから読んでください。
当時は、タカラ貝 だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒のみで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。
(ヘンじゃなかったら、冒頭からもう一度続けて読んでみてください。)
内容もむろんヘンテコなんだが、そうではなくて文章がヘンなんですな。
まあ、諸兄諸姉は、この凱風通信という文末が「である」である文と「です、ます」になっている文が混淆したというか、不統一なというか、要するにむちゃくちゃな文章にも馴らされてしまっているので、違和感が生じないかもしれませんが、でも、やっぱり「だった。」のあとに「でした。」が続き、はたまた「だった。」に戻る文章ってのは、なかなか妙な気にさせられる。
なんじゃろか、これは。
私、買ってしまいました。
いやはや、おもしろかった!
というか、こんなハチャメチャな話は読んだことがない。
要は話の筋(といっても、なんだかよくわからんのだが)、このやし酒飲みのやし酒を作っていた男がやしの木から落ちて死んでしまい、そのせいでおいしいやし酒が飲めなくなったので、この男がやし酒造りを探しに「死者の町」まで行って、むなしく(というべきかどうかは知らないけれど)戻ってくる話なんですが、その途中でとんでもない化け物たちに出会うんですな。
この化け物たちというのがまあ、なまなかの想像を超えているというか、めちゃくちゃというか、ともかくなにがなんだかさっぱりわからないものなんだけれど、それが、どれほどとんでもないものであるか!ということだけはわかるように書かれている。
たとえば、おしまいの方で出会う奴はこんなのである。
背の丈は三フィートと小柄で、皮膚は紙ヤスリのように尖っていて、掌には小さな短い角が生え、呼吸する時はいつも鼻と口から、熱い蒸気が吹き出るし、体は氷のように冷たく、言葉遣いは、教会の鐘のような響きをもち、そのためにわたしたちには何をいっているのかさっぱり解らなかった。両手は分厚く、五インチ位もあるが、しかし非常に短く、指がついていて、足もまるでブロックのような感じだった。形は、人間のようではないし、また、今までに出会った森林の生物のどれをとってもみても、それらと全然似ていなかったし、頭は、スポンジのような髪の毛で一面おおわれていた。
こんな奴らが、次から次と唐突にあらわれ、唐突に消えていく。
読んでいるうちに、まるでこっちがやし酒に酔っぱらったような気分になってくる。
あまりのことにアハハハと笑ってしまうことたびたびである。
作者のチュツオーラという人はナイジェリアに生まれた人らしいが、いやはや呆れかえった本であった。
ここには何の教訓もない。
何の比喩もない。
比喩も教訓も超えて、お話だけがそこにある。
そして、その話が話としてバカバカしいほどおもしろい。
そんな本であった。
いやはや、なんとおもしろい本であったことか!
おかげで、夏の暑さなど、すっかり忘れてしまったわい。