半可通
(問) 博学と多学は同じものと考えられていますが、先生が相反するものだとされるのはなんでですか。
(答) 一であって万にゆくものを博学といい、万であって、万にとどまるものを多学というのです。
博学というのはたとえば根っこのある木であって、根から幹が、幹から枝が、枝から葉や花や実がびっしり茂り、それは数えられないほどですが、しかし樹液のいたらぬところはなく、ますます大きくなっていつまでも成長を続けるようなものです。
多学はたとえば切り花であって、枝葉や花や実が相ならんで輝かしく、見る目に美しくすてきなものだが、しかし乾き枯れて長もちせず、そこにとどまって成長しないようなものです。
つまり、博学と多学は生きているか死んでいるかという違いなのです。
生と死をいっしょくたに見るようではいけません。
― 伊藤仁斎 「童子問」(清水茂 校注)―
毎日新聞の月曜日の朝刊に《週刊漢字》というコラムがある。
難読の漢字を、コレ、読めますか、みたいな軽いノリで書かれている記事である。
今週のそれは
①「斃れる」
②「夥しい」
③「能う限り」
である。
上から順に①「たおれる」②「「おびただしい」③「あたうかぎり」と読む。
まあそれはいいのだが、今週の言葉は安倍総理大臣の「戦没者追悼」のあいさつから取ったものだという。
さて、その記事の解説には、②③について次のように書かれていた。
②おびただしい。非常に多いこと。首相は昨年の広島原爆の日のあいさつに「犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲」と述べた。つながりとしては「言うべくして」より「言うには」の方がしっくりくるが。
③あたうかぎり。できる限り。昨年8月15日と沖縄の今年6月の戦没者追悼式で首相は「あたうるかぎり」と言ったが文法的には「あたうかぎり」が正しい。
この記事は毎日新聞の校閲グループが書いている。
校閲とはその新聞の主義主張に直接かかわる部署ではない。
にもかかわらずそのささやかな記事の中で、彼らは、正しい日本語の使い方すら知らぬ「《あたうかぎり》無教養な」と《言うべくして》ほかに言葉もないような我が国の首相の国語力の低さをきわめてひかえめながら指摘している。
首相の演説を聞くたびに
「あまりといえば、あまりだなあ、恥ずかしいなあ」
という思いを彼らはずっと抱いていたのであろう。
ところで同じ今日の朝刊には下村文科相がなにやら教育について述べている。
曰く、
(英語力の強化の)一方で真のグローバル人材を育成するには日本人らしさも押えておかなければならない。日本の伝統文化や歴史を発達段階に応じてきちんと教えることも必要です。
…などとおっしゃっておいでですが、「日本の伝統文化」のその基になるものは正しい日本語を使うことではないのかしら。
そして、ここでいう「正しい日本語」とは何も昔風の文語文を正しく語れということでは、まったくない。
そんなものはむしろ要らないものだ。
この国の政治家たちは、文語を使えば、なにやらカシコソーに、あるいはエラソーに見えるなどと勘違いしているから「言うべくしてあまりに夥しい」とか「あたうるかぎり」なんて言葉を半可通に使いたがるのだ。
(ちなみに「あたうるかぎり」は漢字で書けば「与ふる限り」ということになる)
そんなことは、ただ「言うには」とか、あるいは「できるかぎり」と普通の日本語で語ればいいのだ。
第一、まちがえない。
政治家たちが、そのような半可通の文語文や、あるいはわけのわからぬ横文字をカタカナ語にして得々と話すことこそが、日本の教育のみならず日本の社会の環境を、最も悪くしているものの一つだという自覚があの方たちにはなさすぎる。
それでも、なおエラソーな文語文体を使いたいというのなら、やっぱりそれは正しく話してもらいたい。
それにしても首相が誤った日本語を大事な公式の式典で語り、それを一年近くたっても直さずにまたと言うというのは、それを指摘する者が周囲にいないということだろうか。
それとも、彼は教えることができる「発達段階」をとうに過ぎてしまったと、周りの者たちはさじを投げているのであろうか。
首相はさまざまな諮問機関を設けるのが好きだが、自分のはいている言葉を点検してくれるブレーンもおいたらどうか。
言うまでもないことだが、教養とは積み重ねた知識の量ではなく、いくつになっても学べる能力のことを指すのである。
誤りはどんどん指摘してもらうがいいのだ。
まあ、そんなことより、まず、身にも付かぬ修辞に見栄を張るなんぞは、ほんとにやめたがいいのだがなあ。