チリ・チリ・チリ !!
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
. 寺山修司
「あれ、知っていますか?」
期末試験の勉強にやって来ていた高校生のマナブ君が言うのだ。
「チリの応援CM。」
前夜観たブラジルとチリのPK戦の話をしていたときだ。
(スペイン撃破!【胸熱!感動CM】・・・You tube )
見た。
なるほど、そうだったのか、と思った。
チリは、あのとき国民を奮い立たせる物語を手にしていたのだ。
4年前、鉱山事故で地中深く生き埋めになった鉱夫たちを70日かけて全員生還させたあのとき。
だからこそ、彼らは、あのいわゆる《死のグループ》を突破できたのだ。
・・・・ とは言わない。
けれども、彼らは自分たちがある苦難に打ち勝った国民であるという誇りを手にしていた。
それを思い起こすことが、選手たちを奮い起こすことになるのだという、そんな誇りの物語を手にしていたのだ。
うらやましいことだ。
私たちにはそれがなかった。
それが持てなかった。
そして、それは船舶事故で多数の高校生を死なせてしまった韓国も同じことだ。
だから、負けた。
・・・・とは言わない。
言わないが、それは関わりのあることだ。
選手たちが言うように、ワールドカップというものが、それぞれの国への誇りをかけた戦いだとするなら。
あの震災からもう3年以上がたった。
にもかかわらず、私たちの国は、それを乗り越えたという物語を持てずにいる。
あるいは、それを乗り越えつつあるという実感が持てる現在進行形の物語すら手にしてはいない。
あったのは、実体のない「絆」という言葉の氾濫。
そして「原発はコントロール下にある」と、世界に向けてにこやかに述べてみせた首相だった。
私たちの国は、言葉だけがただふわふわと浮遊する国だった。
そして今も。
そうやって、私たちはむしろそのことを「忘れる」ことで、あれら震災や津波や原発事故がまるでなかったかのようにふるまおうとしているかのようだ。
打ち勝つのではなく、乗り越えるのではなく、それを「忘れ」、それを「なかったことにする」ことで、物事をむやむやに済ませてしまう国。
それが、私たちの国だ。
なぜ、日本も韓国も一勝もできないままに予選リーグで敗退したのか。
サッカーの技術的なことも戦術的なことも、むろん私にはわからない。
けれども、敗れてさえ、おのずから湧きあがる国への誇りを胸に選手たちが顔を上げてピッチを去れる国であることこそが、その勝利への意志を最も深いところで支える一番大切な基盤なのではないのだろうか。
そんなことを思った。