不覚
小屋はずゐぶん頑丈で、学校ぐらゐもあるのだが、何せ新式稲扱器械が六台もそろつてまはつてるから、のんのんのんのんふるふのだ、中にはひるとそのために、すつかり腹が空くほどだ。そしてじつさいオツベルは、そいつで上手に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸ぐらゐあるビフテキだの、雑巾ほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。
― 宮沢賢治 「オツベルと象」―
打ち鳴らされる太鼓の音は鼓膜ではなく体の皮膚全体に響いてくる。
ライトを浴びて振り下ろされる撥はその速さに光の残像をともなって舞台の上に光の曲線を作りだしている。
髪をひっつめにした女生徒たちのポニーテールが揺れている。
紺の腹がけを付けた若者の背中が汗に光っている。
八千代高校 「鼓組」 公演。
今年も招かれて観に行ってきた。
無理にも明るくふるまおうとしているかに見える高校生たちのキンキンした言葉を聞くのは、今年もやはり私にはしんどかった。
けれども、その演奏は、今年も、素晴らしかった。
そして、気がつけば、今年も、私は身を乗り出していた。
二時間を超える公演の最後、舞台のまん中にカッチンがいた。
あぐらをかき、目の前の太鼓を叩きながら左右をかえりみ、微笑みながら、全体のリズムを刻んでいた。
去年は二年生だった。
今年は三年生。
そうか、おねえさんになったのだ、と思った。
そうか、先輩なのだ、と思った。
そう思ったら、不覚にも、目から涙がにじんできた。
カッチンは健太郎君の娘さんだ。
よだれを垂らして、私の部屋を這い這いしていた頃から知っている。
(それどころか、彼女が保育器の中にいた頃から!)
その子が、今、舞台の上で、全体に気を配りながら、微笑んでいるのだ。
おねえさんになったのだ。
それは、それは、涙も出ようというものではないか!
最後の公演のあと、彼女たちはみんなで泣いたんだろうな。
そういうものなんだろうなあ。
かつて、邑井氏が指摘して下さったように、わしらの水泳部は、要はまともな部活の体をなしていなかったんだなあ。
まあ、それも全然わるくはなかったんだが・・・。
というわけで、太鼓の音でオツベルみたいにすっかり腹を空かせてしまった私ら(健太郎君及びその友人たち)は、中華料理屋に乗り込んでおのおの存分に腹を満たしたのでありました。
よい一日でした。