凱風舎
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預かった猫を置き去りにする

 

「 将来のことって考える? 」

 

― 映画 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 」 ―

 

 

男が猫を小脇に抱えて街を歩いている。

そんな写真のついた映画の広告を新聞で見た。
見てしまったからには、観に行かないわけにはいかないな………。
などと思いつつ、日がたってしまっていたが、見ると、映画はまだやっているらしい。
呼ばれているのだろう。
そう思って、干潟の脇を一時間ほど歩いて映画館に行った。
五日前のことだ。

素晴らしくよいお天気。
空には雲一つなかった。

 

《インサイド・ルーウィン・デービス》

そんな題名の映画だった。
もっとも、写真だけ覚えていて題名は気にしていなかったのでたいへんこまった。
第一この年になるとカタカナはよく覚えられない。
窓口のおねえさんに
「えーと、猫のやつ 」
と言ったら券をくれた。

 

ずいぶんしっぽの長い猫だった。
それをまっすぐに立てて歩く。
ヤギコのしっぽがしっぽだから、その立派なしっぽに、なんだかずいぶん感心してしまう。

ところでこの猫、主人公のひげ面男の猫じゃなかったのだ。
彼が一晩泊めてもらった知人の家の猫なのだ。
その知人宅のドアが閉まり、猫ともども締め出された男はよんどころなくその猫を抱えて次の居候宅に向かうことになる。
それが私が新聞で見た写真の場面だった。

しかしまあ、猫を抱えて地下鉄に乗るなんてなかなかわるくない。
とはいえ、これがヤギコなら、ずっと鳴きっぱなしで往生するにきまっている。
この猫、おとなしい、いい猫だ。

 

話の筋なんて話しても仕方がないので話さない。
そもそもが、話の筋なんてない映画なのだ。
けれども私にはとてもおもしろかった。
この60年代初頭のアメリカの売れないミュージシャンの生活と、70年代の初め、大学をやめて仕事もせず友だちの下宿を渡り歩いていた自分のありようが妙に重なったせいかもしれない。
ケンカばかりしている。
あるいはケンカを売ってばかりいる。
彼に姉がいるのも、なんだかおもしろかった。

 

冒頭の引用は、さっき、映画の予告編を見ていたら出てきたセリフだ。
主人公が女からそう言われる。

将来のことって考える?

そんなもの、主人公、考えたことないに決まっている。
わたしだって、考えたことがない。
だから、よくわかる。
じゃあ、何を考えていたのか。
それがわからない。
たぶん、何かを思い何かを考えてはいたのだろうが、まったく覚えていない。

何の展望も未来も持たないそういう年月を持たずに至極まっとうな大人になっていく人たちもたぶんはたくさんいるのだろうが、そうではない男が、《人に返さなければならない猫 》 を小脇に道を歩いている。
そんな映画だ。

彼がニューヨークからシカゴまで出かけてみても、何も変わらない。
そして、戻って来れば、まったく以前と同じような生活があるばかりだ。
根なし草の生活から足を洗って、まともに働こうとはするが、それもできない。
ライブハウスの裏に呼び出されて知らない男に殴られるというエピソードまでが、まるでコピーのように繰り返される。
彼に、出口があるのか、ないのか。
映画はそのまま終わる。

ところで、彼が知人に返さなければならないと考えていた猫は、実は途中でちがう猫と入れ替わってしまっていたことがわかる。
その時点で、猫は《彼の猫》になっている。
彼はそんな猫を小脇に抱え、やはり街を歩いている。
抱えながら、知り合いの部屋を渡り歩いている。
けれども、彼はその猫を最後まで自分の手元におくことをしない。
あるいは、できない。
逡巡しながら、彼は、たまたま同じ車に乗り合わせた男たちのところに、その猫をそっと置き去りにする。
結局彼は《自分の猫》を自分の猫にすることをしない。
そういうことだ。
そんな男の映画だ。
そんな男の辞書に「将来」という言葉の意味は書かれていないだろう

 

帰り道を歩きながら考えていた。

どれほど多くの《預かった猫 》を、私は人に返せぬままに見失ってきたか。
そして、どれほど多くの《自分の猫 》を、私は人に知られぬままに置き去りにしてきたか。

 

そんな帰り道も、私の上には、やっぱり、雲一つない真夏のような青空。