凱風舎
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6月15日

 

みみず けら なめくじ

目のないものたちが
したしげに話しかけ
る死んだものたちの
瞳をさがしていると

一年じゆう
の息のにお
いが蠢めき
寄つてくる

小鳥たちの屍骸
がわすれられた
球根のようにこ
ろがつている月

葬むられなかつた
空をあるく寝つき
のわるい子供たち

あすは、
すいみつ。せみ。にゆうどうぐも。 (六月)

 

― 安東次男 「球根たち」―

 

 

今日は6月15日。
いまから半世紀以上も昔、60年安保闘争というのがあった。
その年の6月15日、国会を取り巻くデモ隊の中にいた学生、樺美智子が死んだ。

あれから54年、当時の首相の孫が総理大臣になって、日本には「集団的自衛権」が必要だと言っている。
「特定秘密保護法」は国会を通過した。
憲法改正に必要な「国民投票法」も成立した。
これからは「教育改革」が必要だと言っている。
時間外手当なんて出さなくてもよいようにしようと言っている。
法人税の引き下げを「骨太の方針」に書きこむのだと言っている。

一人の愚劣な男と、それに阿諛し追従する者たちによって国のかたちというものがどんなにか簡単に変えられるものなのか、私たちはそのありようを今つぶさに目の前にしている。
ナチス・ドイツはなにもヒトラー一人の手によって出来上ったものではないのだ。
今そのことがよくわかる。

彼や彼の一党が参拝に固執する靖国神社は死者を美化するための装置だ。

だが死なぞ美しくはない。
いかなる死も美しくはない。
まして、戦争による死のどこが美しいことがあろう。

わたしたちが死者たちの棺を花で飾るのは、ほんとうは死が醜いものだからではないのか。
そしてそのことに私たちが堪えられないからではないのか。

若くして生を断ち切られた者たちに、遺族や知人たちは
「もし生きていれば、今頃は・・・」
と語るものだ。
生に引き合う死などどこにもないからだ。

けれども、彼らに死を命じた国家は、あたかも死そのものが美しいものであるかに語る。
まるで、その生よりも美しいかのように。
そうやって、戦争という大量殺戮の場で名も知られず死んでいった者たちを、ことさらに国家が美しい言葉で語ろうとするのは、その死のむざんさとむなしさを国家そのものが一番よく知っているからだ。

そんな国家がまたぞろ大手を振って戦争を始めることができるように安倍晋三ならびにその徒党は「集団的自衛権」を認めよ、と言い出している。
それなのに60年安保から54年、国会議事堂の中も外も静かだ。
日本には何も起きない。

なにも起きないが、けれども、それが安倍首相のやっていることへの国民の賛意だとは私には思えない。
思えないのに、なぜ国の方針はこんなにも易々と変えられていくのだろう。

言うまでもないが、私は安倍晋三の行おうとするあらゆる政策に反対である。
とはいえ、私は何をすればいいのか。