牙刷
よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすゝぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろへ、きよくあらふべし。嗽口たびたびすれば、すすぎきよめらる。
― 道元 「正法眼蔵 ( 第五十 洗面 ) 」―
邑井氏の小学校の先生ではありませんが、道元さんも、顔の洗い方、トイレの使い方、歯の磨き方について、弟子たちに対して実に懇切丁寧に指導なされておられます。
読んでおると、どうもこの方はほとんど神経症なのではあるまいか、と思われるほどに、その手順についてのこだわりが強い。
しかしながら、時代は「餓鬼草子」が描かれた鎌倉時代である。
その中では、人びとは道端で大小便の用をたしておる。
清潔、不潔の観念は現代のそれとはまったくちがう。
その中において、清らかであることこそが仏法を修業する第一の階梯である、との思いが道元さんには強かったのでありましょう。
さて、今日の引用は、その歯磨きの部分ですが、ほとんどすべてひらがなですし、それを現代語に直さなくてもちゃんとわかる。
とはいっても、出だしの「よくかみて」がよくわからないかもしれない。
何をかむかというと、楊枝を噛め、と言うておるのです。
楊枝といっても、それは昼飯を食べ終えたおっさんがたが口にくわえて通りに出てくるような、あの爪楊枝ではない。
もっと長くて、もっと太い。
しるべし、四指よりもみぢかくすべからず。
十六指よりながきは量に応ぜず。
ふとさは手小指大なり。
とある。
もっとも、それより細くてもよい、と書いてある。
その先っぽを噛め、と言ってるんですな。
噛んで繊維をほぐし、ブラシ状になったそれで歯を磨けとおっしゃるんです。
「はのもとのししのうへ」(歯茎)もしっかりマッサージなさいという。
ちなみに今から23年前、狼騎宗匠とインドへ行った際、夜明け前の駅のプラットホームでまさしくこれと同じ十指ばかりの長さの歯磨き用の楊枝を使っておる人を見かけ、私も一本購入したことがあります。
その見た目は、ただの枝でしたが、噛むと、かすかにさわやかな香がするものでした。
はてさて、このように、インド生まれのお釈迦様は楊枝をお使いになった。
そして、日本でも楊枝を使う。
しかるに、自分が留学した宋国では誰もこれを使わない。
馬の尻尾を切ったブラシで磨くやつもおるが、そんなやつさへ
万人が一人なり。
つまり、「一万人に一人」といった状態である。
その結果、宋国の人びとは、どういう状態であったかと言えば、
天下の出家在家、その口気はなはだくさし。
二三尺へだててものいふとき、口臭きたる。
かぐものたへがたし。
というありさま。
きれい好きの道元さん、これはよほ腹にすえかねたのでしょうな。
口をきわめてののしっておられる。
というわけで、楊枝を使いなさい、という。
ちなみに、日本では明治になるまで、歯ブラシのかわりに楊枝を使っておったようです。
爪楊枝ではなく、和菓子なんぞを食べる際に用いるクロモジの木を使ったらしい。
はてさて、こないだの台湾、もちろん口臭はなはだしき人になんて出合わなかった。
現在歯を磨かぬ人なんて文明国には存在しない。
ところで、ホテルの使い捨て歯ブラシの箱には
牙刷
の字が印刷されておりました。
中国語において「歯」は「牙」と表示されるらしく、歯医者さんの看板は皆「牙醫」と書かれておりました。
なにやら猛獣になったような気がいたしますな。
「牙刷」の「刷」は「こする」の謂でしょうか。
当然ながら「牙刷」だからといって、「ガサツ」な磨き方ではいけませんね。