物であること
破片は一つに寄り添おうとしていた
― 丸山薫 「砲塁」 ―
詩の中でコマの粗い白黒のフィルムがゆっくりと逆回転されてゆく。
しかし、それはけっして元にはもどらない逆回しだ。
破片は一つに寄り添おうとしていた
亀裂はいま微笑もうとしていた
砲身は起き上がって
ふたたび砲架に坐ろうとしていた
みんな儚い原形を夢みていた
ひと風ごとに砂に埋れていった
見えない海
侯鳥の閃き
実は「集団的自衛権」に関連付けてこの詩を引用しようとしたのだ。
けれども、読み返してみると、詩は、今あるそんな浮薄な議論なんかよりはるかに深くかなしかった。
この哀しみとはいったいなんなのだろう。
それは人間に造られた「物」のかなしみなのだろうか。
畑の傍らに捨てられた間引きされた苗や人の出す生ゴミにはそんな悲哀はないのに、同じゴミ捨て場にあっても、なぜ、そこに置かれた、形を持つ、人に使われた道具は哀しいのか。
なぜ、人の造った物ばかりがそんなにもさびしいのか。
どんな大きな地震も津波も自然を廃墟にすることはない。
廃墟となるのはいつだって人の造った建築であり、町である。
人が消えた過疎の村から、もし、もはや住む人いなくなった家も同じように消えてしまうならば、それはすこしもさびしい風景ではないだろう。
廃墟、あるいは廃物、それらは、ある目的を持って造られた物たちが、本来あるべきではないところに置き去りにされたことからくるかなしみなのだろうか。
それらは、まるで、人というものがその根底に持たずには生きていけないさびしさというものの形代(かたしろ)のようだ。