霊験あらたか
これも我がむかし蒔(ま)きて、久しく忘れ居たりし種の、今緑なる蔓草(つるくさ)となりて、わが命の木に纏(まと)へるなるべし。
― アンデルセン「即興詩人」(森鴎外訳)―
線香、と言っても、長さは60センチは優にある。
それを三本。
それに金ピカの紙で包んだのり弁くらいの大きさの包み。
もっとも、こいつは弁当と違ってすこぶる軽い。
これが合わせて20元。
なるみが
「私らもお参りしましょうよ」
と言って建物の脇の奥まったところに入って三人分買ってきた。
20元はまあ70円くらいのものか。
自動販売機で売っているペットボトル入りのお茶の値段。
なかなか安上がりな神様である。
「ここ、縁結びの神様なんだって!」
もどってきたなるみが言う。
道を歩いていて出くわした廟である。
人がたくさんいるので立ち寄っただけだ。
なるみがビックリマークを付けて報告するほどのことではないが、どうりでたくさんの若い娘さんたちがいるはずだ。
まあ、その祈りぶりの真剣なことといったら!!
あまりにもその祈りの様子がみな真剣なのでついつい私らも引き寄せられたのだが、これが縁結びの神様であるということは、それぞれに既婚者であるしゅんにもなるみにも、はたまた老境に入ってすでに久しい私にとっても、ここはまったく縁のない場所ということになる。
とはいえ、この長い線香と金ピカ弁当を持ってそのままもどるわけにもいかず、線香の先に火をつけて人の流れのままに廟の中に入る。
何をしていいのか、よくわからず、ぼんやり立っていたら、若いあんちゃんが持って来た金ピカののり弁を指さして片言らしい日本語で、それを神様の像の前に置け、と言う。
お供え物らしい。
それを置いてもどってまたぼんやりしていると、見かねたらしいあんちゃん、今度はちょっと怒ったふうに、線香をもっと高く上にあげろ、と言う。
見ればたしかに、周りの人たちはみな線香を頭上高くに捧げ持っている。
どうも、私、信心が足りないこと誰の目にもわかるらしい。
イカンですな。
反省する。
反省して頭上に線香をかざしてみると、なんだか自分も中国人になったような気がする。
民族には民族の祈りの形というのがあるのだ。
私たちは胸の前で手を合わせ、中国の人たちは祈るとき合わせた手を頭上にあげるのだ。
あんちゃんは言う。
まず自分の姓名、生年月日、住所を言う。
それから、意中の人の名を告げる。
すると願いが成就する!
すごいなあ!
それがまん中に鎮座なさっている神様。
でもって、その左右にはそれぞれ財運と健康運をもたらす神様がいらっしゃる。
つまり、御利益は人生万般に当たるわけだ。
とはいえ、当方、人生万般、さしあたって別に告ぐべき願いもない。
願いごとがない、というのは、たいへんしあわせだ、ということなのだろう。
ありがたいことだ。
それから部屋を三つばかり巡って外に出る。
その間線香は持ったままである。
それを廟のまん前に置かれた浅草寺にあるみたいなどでかい香炉の中に入れるのだが、あんまり参詣人が多いせいなのか、私らがそこに線香を入れるときは香炉は煙ではなくぼうぼうと炎を上げて燃えていた。
いやはや、やけどしそうなほどだ。
廟を出たところに茶湯をもらえるところがあって、俊ちゃんが取って来てくれる。
待っていると、なにやら結婚式をそのまま脱け出して来たようなカップルがさっきの香炉の前にいて周囲から人がいなくなって遠巻きにそれを眺めている。
どうやら、二人、お礼参りに来たらしい。
花嫁さん、なかなか美しい。
花婿も好男子。
おたがいよき伴侶を得たものじゃ。
たぶん、彼女、かつてここで己が姓名、生年月日を述べて、相手の名を告げたのであろうなあ。
そうして彼女は自分の「蒔いた種」を忘れなかったわけだ。
エライものだ。
それにしても、実にこの神様、霊験あらたかの神であらせられるのだなあ。
……と思う間に、なんとカップル、接吻まではじめる。
うーん、めでたいことじゃ。
と、そんな折も折、接吻するカップルの横あいから顔を出した無粋な茶飲み男は俊ちゃんです。