アシとススキ
永禄五年(一五六二)三月五日、三好長慶は飯盛城で連歌の会をひらいていた。宗養だったか、紹巴だったか忘れたが、誰かが、「すすきにまじる蘆の一むら」 とよんだあと、一同がつけなやんでいると、長慶が、「古沼の浅きかたより野となりて」 とつけて、一同の賞賛を博した。
―花田清輝 「古沼抄」―
言うまでもないが蘆(あし)は水辺に生える植物である。
すすきは乾いた土地に生える。
湖沼がしだいに堆積する土砂や生物の死骸で浅くなり、やがて湿原へと変わり、ついには草原となり、やがて低木林へと移行していくことを植物の湿性遷移と呼ぶ。
もちろん湖沼は浅い方から乾いていく。
花田清輝が引いている連歌の二句は、要はそうした植生の湿性遷移を歌っただけのものである。
気がつけば、アシばかり生えていた水辺は、いつしかススキの生い茂る野へと変わり、その中に沼の名残りのアシがわずかに一群残っているだけになったというのだ。
言われてみれば、きわめてあたり前のことを述べたにすぎない。
にもかかわらず、なぜ、このとき三好長慶の付け句は一同の賞賛を博したのか。
それは、単に、そのような風景を誰もが目にしたことがあって、だから、皆、思わず膝を打った、ということだけではないだろう。
古沼の浅きかたより野となりて
この一句には、そこに会した者たちの心にしみる何ごとかがあったのである。
およそ、時代というものは、生物界の遷移と同じく、ゆるやかにすすみ、ある日気がつけば、はっきりとその変化を目の前に見せるものだ。
三好長慶は信長などと時代を同じくする戦国末期の武将だが、自らも下剋上を生きた長慶が、
すすきにまじる蘆の一むら
という前句に、
古沼の浅きかたより野となりて
と付け句したのを耳にしたとき、その場に居合わせた人びとは、「浅きかたより野と」なっていく「古沼」に、時代の変化をどこかで重ねていたのではないのか。
はたして、彼らのうちの何人が自分をアシととらえたのか、あるいはススキと見たかはわからないが、彼らの心に、得も言えぬ感慨を起こさせる一句になったのだろう。
さて、ひるがえって、今の日本を思うとき、とても大切なものが
すすきにまじる蘆の一むら
になりつつある、という思いがするのはわたしだけなのだろうか。
自分が目にしている時代の風景が
浅きかたより野となりて
といった風情になりつつあるという気がしてくる。
戦後の日本社会に脈々と流れていたはずの大事な水源が涸らされようとしているのではないか、という思いに駆られる。
そう私が思うとき、何がススキで、何がアシであるのかは書かないことにするが。
《教訓》
釧路湿原は、湿原と接する台地の縁辺部から、年間を通じて安定した豊富な湧水の湧出があるそうである。
それがあの湿原を維持させているのだという。