アン
うつくしい日だった。道もうつくしかった。
― ルーシー・M・モンゴメリ 『アンの愛情』(村岡花子 訳)―
NHKの第二放送でお正月からまるまる三カ月続いていた「赤毛のアン」の朗読が昨日で終わった。
孤児院からやって来た11歳のアンがグリーン・ゲーブルズに引き取られる顛末から始まった話も、大学を卒業した22歳のアンとギルバートがおたがいのすれちがっていた愛を確かめ合うところでめでたく終了。
これは本で言えば『赤毛のアン』『アンの青春』『アンの愛情』の三冊分に当たる。
それを60回でやるのだから、朗読はむろんダイジェストではあったが、それでも毎日聴くのはなかなかたのしかった。
語られる話は、カナダの片田舎のひたすらおしゃべりな少女の、言ってしまえば、どうでもいい些事の積み重ねに過ぎない。
それは、こないだ私が読んでいた「フランス革命史」が語ることは対極にあるものだ。
見栄えのせぬ赤毛の少女の身に起きる出来事は、読み手(聴き手)である私に何のかかわりもないし、むろん世界の歴史にもかかわらない。
にもかかわらずそれを読む(聞く)ことはたのしい。
モンゴメリが飽きず描き続けた少女の身に起きる出来事は、言ってしまえば、誰にでも起きる出来事だ。
家の中の家族とやり取り、近所の人との付き合い。
あるいは学校の友だちとのさまざまな友情やけんか。
やがて、家族や地元からすこし離れ、ひとまわり広い世界へと出て、学び、恋をし、より広い新しい世界へと踏み出していく。
それは、私たちの誰もが踏んでいく道だ。
けれども、そこに語られる小さなエピソードの一つ一つは、微妙に私たちのそれと違うし、あなたのそれともちがう。
そして、その小さな違いこそが、まちがいなく、アン・シャーリーというこの少女をつくりあげている。
道を歩くとき、前に行った者の足跡の上をまちがいなく踏みなぞっていく者なぞいない。
みな微妙に足跡がずれてしまっているのは、なにもアンだけに限ったことではない。
私もあなたも、皆おなじように歩いているようでありながら、それぞれにちがうエピソードを持って道を歩いてきたのだ。
それがわたしを作りあなたを作りアンを作っている。
単純に言ってしまえば、人の固有性とはそういうことだ。
アンがアンであるのは、経てきた一つひとつの些事による。
モンゴメリが書いたのは、どうでもいいような小さな出来事の積み重なりこそが一人の人間をつくりあげているということだ。
今の内閣は道徳教育を充実させるのだと言っている。
道徳、ということについて語るとまたまた長くなるので今は書かないが、彼らの求めている「道徳」とは、お上が決めた「足跡」の上を人びとにずれることなく踏みなぞらせ歩ませようとすることなのだろうと思う。
そのことにアンは反対するだろうし、むろん、その愛読者である私も反対する。
たぶん「うつくしい道」とはふと脇道にそれても構わぬようなそんな道であるはずだから。
追伸
ちなみに「赤毛のアン」の朗読の今週分にあたる最後の五回分は今夜10時25分から第二放送でまとめて再放送があります。