挿木
今日は三月二十三日
仄かにこな雪がちらついて
あたたかな春の彼岸の中日です
おいで妹たち
僕らは挿木をしよう
祖父さんやそのまたお祖父さんたちがやったように
今日はほとけの日で挿木の日だ
雪は僕らの髪の毛にかかろう
そして挿木はみずみずと根をさそう
― 中野重治 「挿木をする」―
今日は三月の二十三日。
けれども、中野重治が言うようには「春のお彼岸の中日」ではない。
昼と夜の時間が同じ春分の日と秋分の日は年によって変わる。
だから今年の今日がお彼岸の中日じゃなくてもちっとも構わない。
中野重治のふるさとは福井だ。
だから、春の彼岸の中日にだって雪は降ることはある。
けれども、たとえ雪が降ってさえその日は「あたたかな」のだ。
中野重治はそう書いている。
そして、きっと「それはそうだろう」とわかる感覚が彼と同じ北陸に生まれた私にはある。
たとえ降っても、それは、根雪が解けたあとの、けっして積りはしない春の雪なのだ。
そんな「ほのかなこな雪」は、静かに土を黒くしめらせているだろう。
そして春の雪にやわらかく息づく土に、彼は「妹たち」に挿木をしようと誘う。
(このとき、誘うのは「妹たち」でなければならない。
それはけっして「弟たち」であってはいけない!
それは田植えをするのが早乙女たちでなければならないのと同じ理屈だし同じ直観だ。)
今日はほとけの日で挿木の日だ
彼はそう言う。
春の彼岸の中日に挿木をする習慣というものがどこにでもあるものなのか、わたしは知らない。
今日というほとけの日は実は挿木の日だ、というのは、むしろこの詩人の心にふと湧いた思いととらえるのがいいのかもしれない。
けれどそれはなんとやさしい思いつきだろう。
今は「ほとけ」になった、自分たちにまで命つないできた「祖父さんやそのまたお祖父さんたち」の日である春の彼岸の中日、「仄かなこな雪」が「僕らの髪の毛にかか」り、そんなほとけたちの「ほのかな」雪を髪に載せた若い「妹たち」が新しい命を根付かせようとやわらかな土に挿木をする。
このとき、土をしめらせ挿木を根付かせる春の雪はむしろ「ことほぎ」として降っているだろう。
今日はほとけの日で挿木の日だ
雪は僕らの髪の毛にかかろう
そして挿木はみずみずと根をさそう
詩人はそう書く。
うつくしいやさしい三月二十三日の詩だ。