凱風舎
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成人の日

 

 オフェリア 貴方が下さつたもので、
       前からお返ししたいと思つてゐたものがございます。
       今お返ししますからお受け取りください。

 ハムレット いや、そんなことはない。
       わたしは貴方に何も上げなかつた。

 オフェリア いえ、御存じのことでございます。
       そしてその時の優しいお言葉で、戴いたものに
       香りを添えて下さいました。それが今は消えて、
       これをお返しする他はございません。誇りがあるものならば、
       どんなに高価な贈りものも、下さつた方が冷たくなされば、
       もう値打ちがございません。

 

  ― シェイクスピア 「ハムレット」(吉田健一 訳)―

 

 昨日映画の帰り古本屋に寄ったら、黄ばんだ帙の背に
  シェイクスピア  吉田健一著
と書かれた本を棚に見つけた。
 まだ読んだことのない吉田健一、ときては見のがすわけにはいかない
 引っぱり出してみると100円の値札が本の裏表紙に無造作に貼ってある。
 となれば、まあ、買わないわけにはいかない。

 昨夜、子どもらが帰った後半分ほど読み、今日続きを読んだ。
 貧弱なわたしの読みでは何も見えていなかったシェイクスピアの豊穣な世界が、ところどころに原文を載せて書かれた訳文とともに、それに付された吉田健一の的確な評の中によみがえり、
  そうかあ!
  なあるほどなあ!
と、わたしは読みながらすっかりいい気分になっってしまった。
 ほんとうは今日は子どもたちの私立高校の入学試験の日で、まあ、塾の先生たるもの、すこしは心配しているふりでもしなければならないのだろうが、わたしはそんなことなんかすっかり忘れてしまっていた。
 豊かな気分、なんていう言葉は、めったに心に浮かぶものではないが、読み終えたあと、わたしは、この本を読んでいるとき自分がまったく豊かな気分であったことに気付いて愉快だった。
 その心豊かさはもちろん読み終えたあとも続いていた。

 よい文学とは何か、ということを定義してみれば、要するに、それは、人を豊かな気分にさせるもの、ということなのであろう。
 そして、それは何も文学だけに限らず芸術一般に当てはまる定義なのだが。

  さて、読み終えてしばらくしてから、ふと、最後の裏表紙の内側の白いページを見ると、万年筆で書かれた美しい丁寧な字でこんな言葉が記されてあるのを見つけた。

 

 昭和三十五年一月十五日

   成人式のお祝いに柴田昌子さんよりいただく

 

 わたしはなんだか目が遠くなった。
 昭和三十五年の一月、といえば、わたしはまだ小学校一年生である。
 
 そして、たしかにあの頃は(そして、わたしたちの頃も)まだ成人の日は一月十五日と決まっていたものだった。

 この柴田昌子さんいう人とこの本を贈られた人とがどんな関係だったのかは、もちろんわからない。
 
 そして、またこの本がどんな事情で古本屋に回ることになったのかも私にはわからない。
 ひょっとすれば、この本の中にあった今日引用のオフェリアのセリフのようなことでもあったのだろうか。
 むろん、それはわからない。
 (もっとも、それでは男女逆転だが)

 それにしても「成人の日」というものが、このような本を贈り贈られるにふさわしいと思える日であった時代がかつてはあったのだなあ。
 もちろん、このようなことをする人はその時代にあってもめずらしいものだったのかもしれない。
 
 
 
 けれども、それは「成人の日」というものが、成人になった者にもそれを見守る者にも今よりはずっと気まじめに受けとられていた時代であったことの証しのような気がする。
 貧しいが、けれどもどこかきまじめな日本。
 この国がかつてそのような国であったことが、なぜだか知らず、なつかしいような気がする。

 本の裏にたまたま見つけた字を読みながら、なんだかわたしは小津安二郎の映画の一場面にでも遭遇したような気分になった。