目利き
そんなことは地上では起こらぬのである。
― トオマス・マン 「トニオ・クレエゲル」(実吉捷郎 訳)―
「トニオ・クレエゲル』の中にこんな言葉がある。
この言葉が出てくるのはこんな場面である。
主人公トニオが16歳になったとき、彼は金髪の快活な少女インゲボルク・ホルムに恋をする。
そんな彼は、彼やインゲなどの上流階級の子弟がカドリールを習っている場で、女性の組にまじって踊ってしまい、インゲをはじめ皆の笑いものになる。
その休憩の時間、トニオは一人廊下に出る。
彼は、何も見えぬブラインドの下りた窓から外を見るようなふりをしながら、自分の心の中を見ている。
その彼の心はつぶやく。
ほんとは彼女がここへ来なければならないところだ。自分がいなくなったことに気付いて、自分がどんな気持ちでいるかを感じて、たとえただ憐れみの心からにもせよ、そっと自分のあとについて来て、自分の肩に手を掛けてこう言わなければならないところだ。――私たちの所へ入っていらっしゃいな。機嫌よくなさいよ。わたしあなたが好きなのよ。――そして彼はうしろのけはいを窺いながら、不合理な緊張のうちに、彼女がくればいいのにと待っていた。しかし、彼女は一向やって来なかった。そんなことは地上では起こらぬのである。
そんなことは地上では起こらぬのである!―――遠い昔、この言葉は十五歳のわたしを震撼させたものだったが、そんな言葉を、今日は、はしなくも思い出すことになった。
何があったわけではない。
映画を観たのだ。
「鑑定士と顔のない依頼人」。
何日か前に書いた、あの肖像画だらけ隠し部屋を持つ男の映画を、なんだかおもしろそうだからと観てきたのだ。
その帰り道、カモたちが浮かぶ干潟の横を歩きながら、こんなセリフを思い出したのは、同じくトオマス・マン原作の映画、ヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」と同じように、主人公の男の白髪が黒く染められていることがあからさまにわかるシーンがあったせいかもしれない。
いやあ、それにしても、ひさしぶりに実におもしろい映画だった。
これは美術品の本物と贋物を見分けることにおいて当代一の目利きの男に「そんなこと」が起きた話である。
あるいは、やっぱり起きなかった話である。
それにしても、彼ははたして美術品ではない愛の真贋を見抜くことができたのか。
言ってしまえば、そんな映画だ。
ところで、「本物の愛」とは何であり、それは「本物の愛」に似せて演じられた「愛・らしきもの」とどこが違うのか。
あるいは、わたしたちは何をもって「真正の愛」と呼んでいるのか。
観終わったとき、そんなことを思わせる映画、と言えばいいのだろうか。
主人公の鑑定人はいつも手袋をしている。
彼はけっして現実に「素手」で触れようとはしない。
彼は人との交わりを避け、レストランで食事をするときですら手袋を取らない。
彼が愛するたくさんの肖像画の掛けられた部屋は象徴的にも無数の「手袋」の並んだクローゼットの裏にある。
やがてその主人公は手袋を取り、素手どころか素裸になって、同じく「隠し部屋」に住む若い依頼人とベッドを共にするのだが、主人公は、最後にはすべてを失くしてしまう。
けれども、それは、昨日の話に続けていえば、彼はすべてを失うことによって実は初めて「人生」を手に入れたということなのかもしれない。
・・・などとあんまり書くと話の筋を全部言ってしまいそうなのやめておくが。
この映画にはさまざまな仕掛けが施してある。
これから観ようと思う人は、物語の流れに酔いながらも細部に目を凝らして見ていなければならない。
最後になってそのすべてが伏線となっていたことに気付くようにできている。
いずれにしても、これは、それを観た人とこの映画についていろいろと語りたくなるような映画だった。
興味を持たれた方は是非予告編でもご覧くださいませ。
それにしても、ほんとうに「そんなことは地上では起こらぬ」のだろうか?