凱風舎
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 (谷川は)岩にぶつかるときや、瀧になって落ちるときには、このごろの水量がどのくらゐあるかを示す音をたてる。谷川はこの状態のままずゐぶん長い距離を流れて行き、たうたう自らの幅の十倍はあろうと思われる淵をつくってゐる。

 

 ― 井伏鱒二 「 川 」 ―

 

 

  三日。
 年末年始とゆったりと流れていた時間が、すこしずつまた日常に戻ってゆく。
 どちらが本当の時間の流れなのかそれは知らない。
 どちらも同じ時間なのだが。
 たぶん、川の流れに淵や瀬があるように、音立てぬゆるやかな厚みをもって流れるところが一年のなかにもあるのだ。

 川は上流にあるとき、音を立てる。
 岩にあたり、土を削り、川床の小さな石ころの上を乗り越え、あるいはその石を転がし、そのたびにたのしげなかろやかな音を立てながら日をはね返しキラキラとキラキラと輝く。
 
 けれどもそれは、やがて、横合いから集まってきた水をくわえてその水量を豊かにし、いつか平坦な平野に入れば、底の石など無きがごとくにその表面は波立たず、ゆるやかに海へと向かう。
 そのようなものとして川があり、たぶん、人の生もまた、ほんのわずかなことに喜び、笑い、泣き、叫び、そのたびにきらきらと光を放った子供時代から、しだいに穏やかな大人へ、あるいは老年へと向かうものとしてあったのではなかったのか、と思う。

 いやいや、川は川、人は人、というかもしれない。
 けれども、美空ひばりに「川の流れのように」という歌があり、それを人びとはそれなりに意味あるものと受け止めきいていたではないか。
 もっとも、その歌詞がどんなものであったか、今私は思い出せないのだが。

 たぶんわたしたちはゆるやかに時が流れる老年を持てなくなった時代にいるのだろう。
 人々はあらゆることに反応してはそのたびにキラキラと輝いていた若い頃が一番だと思いこまされているらしい。
 けれども、もし私たちがいつまでたってもそうであるなら、それは、ある年齢に達するまでに自分の中に他から注ぎ込む豊かな水量をついにはこれまでに自分の中に取り込むことができなかったことの証しではあるまいか。

 できれば、穏やかに日の光を反射しながらゆっくりと、しかし深く流れる下流でありたいものだと思う。
 どれほどの水量を私が持っているかはわからないが、持ちえた水量のままにも深くゆっくりと流れたいものだ。