プロムナード
弱い冬の陽射しを浴びながら
すっかり葉を落としたナラやクヌギの林を歩めば、
樹以外の何者でもなくなった樹が
おまえはおまえ以外の何者でありえたかと問いかける。
― 中村稔 「冬の森林公園にて」 ―
今日で高校生の期末試験も終わり。
というわけで、午前中で学校が終わった真君と点描派の展覧会を観に行ってきた。
真君、センター試験まであと40日を切ったというのになかなか余裕だなあ。
まあ、私が誘ったんだが。
ムソルグスキーに「展覧会の絵」という組曲がある。
そしてその組曲の合間合間には「プロムナード」という気持ちのよい曲が入る。
一つの絵から次の絵へと移る心愉しい歩みだ。
ところが東京の展覧会の多くにはその「プロムナード」に当たる部分がない場合が多い。
人が多すぎるのだ。
入口で待たされ、そのあとも人ごみの中を列を作り絵の前を歩くだけ。
そのようなものは実はなかなかに「展覧会」とは言い難いのではないかと私は思ってしまうのだ。
とはいえ、今日、師走の水曜の昼下がり、六本木の新国立美術館は、一つの絵の前に多くて三、四人いるぐらいのもので、気に入った絵を近付いて見たり離れて見たり自由にできてなかなか愉しかった。
いままで知らなかったよい絵も三つばかり見つけた。
真君もおもしろかったらしい。
小一時間会場を巡り二人なかなかよい気分で外に出ると、奇妙なもので、初冬の葉を落とした木々や彼色の庭の草がまるで点描で描かれているように見えてしまう。
私は影響されやすいのだ。
今日はそんな冬の木立の連想から中村稔の詩。
樹以外の何者でもなくなった樹が
おまえはおまえ以外の何者でありえたかと問いかける。
という詩句には、遠く中也の
あゝ おまへはなにをしてきたのだと・・・・・
吹き来る風が私に云う
という「帰郷」の詩句のこだまが聞こえてくるのだが、 同じ問いかけの言葉でありながら
おまへはなにをしてきたのだと・・・・・
という問いが青春の問いであるなら
おまえはおまえ以外の何者でありえたか
という詩句はまさしく老年のそれであるのだろうか、と思ったりもする。
むろん、年輪を加えていくにつれて自ずと自分の形を作り上げていくことができる木々たちとちがって、人は、人と別れ人と出会い、日を送り日を迎え、気がつけば今の「自分」になってしまっているに過ぎない。
にもかかわらず、ふと思えば、たとえばあの時の出会いあるいはあの日の別れがなくとも、
「おまえは(今ある)おまえ以外の何者でありえたか」
と問わしめるだけの自分固有の何ものかが私の中にあることも確かなような気がする。
けれども、そう思うことが、果たして私の老年がそう思わせるのか、あるいはまだ私の中に残る青年の客気がそう言わせるのかは知らないのだが。