まったく、まあ
書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり
― 斎藤茂吉 「赤光」 (日本詩人全集10「斎藤茂吉」)―
あまりと言えばあまりなことですな。
今朝の毎日新聞に政府の「教育再生実行会議」なんてところが、国公立大学の二次試験からペーパー試験を原則廃止する方向で検討しておるという話が載っておった。
なんでも、二次試験からペーパー試験を廃し、面接などの「人物評価」を重視するんだそうな。
アホじゃあるまいか。
なにやら、大学入試まで「就活」めいてきますな。
ペーパー入試のために勉強することすらしなかった学生たちが 集まっている、すでに AO 入試などを取り入れた私立大学がどれほど悲惨な学生たちの「愚者の巷(ちまた)」になっておるか、なるみさんが勤めてらっしゃる大学の話を洩れ聞くだけでわかろうというものです。
「人物だよ、人物!」なぞとほざいて、知をないがしろにしてきた者たちが大学に入っていったい何を学ぼうと言うのか。
英単語一つ覚えようともせず、数式の応用すらまともに行う訓練もなさず、世界の歴史はおろか近年の日本の歴史すら虚心に学ぶことをしなかった者が
「それでも私、《人物》にだけは自信があります」
なんてことを平気で言って胸を張ってるなどという学生、それは実にキモチワルイものではないか。
しかし、ふと気がついてみれば、それはすぐ目の前にいるではないか。
何のことはない、時の総理、副総理のお二人だ。
どう考えても、このお二人、まともなお勉強を高校時代、あるいは大学においてもなされた形跡がない。
少なくとも、家庭教師やら何やらを十分つけてもらえる恵まれた環境にありながら、彼ら二人はまともに勉強ということをなされなかった。
彼らの傲岸さ、弱者に対する思いやりのなさは、彼ら二人が 一度たりとも「知」を得るために格闘したことないことから生じているのではないかと私は思っている。
「学ぶ」ということは、物事に対する自分の見解をいったん捨ててみる、ということだ。
自分の狭い見解ではなく、相手の言うがままに考えてみるということだ。
それが、彼らにはできなかった。
虚心坦懐にともかく努力をする――――それができなかった。
なあに、受験勉強なんてしなくたって、俺らは大学には入れるさ。
そう思っていた。
あるいは邪推するなら、自分のおやじたちの権力もしくは金力によって「裏口」から手を回せば、どこかの「一流大学」だって入れると思ってた。
あにはからんや、そうはならなかった。
少なくとも当時の大学はそれを許さなかった。
あるいはそれが許されないほどに、彼らはまともに勉強というものをせずに過ごしたらしい。
(でもまあ、それでも就職の方は「人物」が評価されたらしいが。)
目の前に果てしもなしに広がるかに見える「知」の地平に畏れを抱いたこともなく、それらを端からバカにして勉強もしなかったような者たちが主宰する内閣が、「反知性」の教育を標榜することに何の不思議もないが、いったい、ものを学ぶ習慣を持たない者たちを輩出する制度のどこにいったい教育があるのであろう。