I do.
私の心がどんなに無知の深い池であるか、おじ様はお信じになれないほどでございます。
― J・ウェブスター 「あしながおじさん」 (松本恵子 訳)―
真君が言うところによると、自分の好きな映画のプレゼンテーションをするという課題が学校で出たそうである。
「俺、《ゴッド・ファーザー》にしようと思うんですけど、どうですかねえ」
と言うから、「いいんじゃない」と答えると
「一緒に観ませんか」と言う。
それをどんなふうにプレゼンしたらよいか、私の意見を聞きたいというのである。
《ゴッド・ファーザー》。
久しぶりである。
別に否やはない。
というわけで、彼は昨日その映画の入っている自分のPCを持ってきて、朝から二人で観ることになった。
ところが、始ったとたん、ここに、たいへんな問題があることがわかったんですな。(少なくとも、私には)
あの、ですね、この映像には「字幕」が付いてないんですな。
かといって、「吹き替え」でもないんです。
つまり、まるまる英語。(一部イタリア語)
しかも、この映画の中のマーロン・ブランドなんかは口の中にティッシュを詰めてて、すこぶる聞き取りにくくしゃべっておる。
うーん。
それが三時間です。
うーん。
あのう、紹介し遅れましたが、真君のお父さんはカナダの人なんです。
お母さんは日本人ですが、父親が日本語をほとんどしゃべらないので彼の家の中では会話のほとんどは英語で行われておるらしい。
ですから、彼がこの映画を観ることに何の支障もない。
一方のわたくしは、と言えば、・・・・・まあ、御存知の通りです。
会話の10分の一、は褒めすぎで、まあ20分の一ぐらいしか理解できない。
で、どうだったか、と言えば、おもしろかったんですな、これが。
もちろん、それは私が「ゴッド・ファーザー」という映画を観たことがあり、おおよその話の筋がわかっていたということも、大きかったんでしょうが、 どうもそれだけではなかったような気がする。
たぶん、セリフなんてなくたって映画というのは筋が追えるように作られているんです。
考えてみれば、そもそも、映画というものが無声映画から始まっているんですからね。
映像でお話の筋がわかるように作られているものなのです。
役者の演技、表情、衣装、そして映像の明暗で何が起きているのかを理解できる。
でも、今回、私が一番おもしろかったのは、映画そのものより
「彼らの話を一生懸命理解しようとしている私」
でした。
なにしろ言葉の理解が十分の一にも満たないので、私はいつも以上に注意を払って映像を見つめていました。
それでも、なぜ登場人物たちが笑い、泣き、あるいはしずかに語るのか、その本当の意味はわからない。
わからないけれども、見つめ理解しようとする・・・・。
なんだか、私、自分が小学生くらいに戻ったような気がしました。
小学生が大人向けの映画やドラマを観ているような、そんな気分でした。
もっと言うなら、子どもにとって「世界」そのものが実はこんなふうに見えているんじゃないかって思いました。
大人たち、あるいは中学生、高校生たちの言っていることの実は十分の一もわからない。
わからないけれど、そのつじつまを自分の中で合わせながら、一生懸命わかろうとする。
あるいは、そうやってわかった気になる。
きっと、それと一緒なんじゃないかって思ったんです。
そうなっている自分がとてもおもしろかった。
でも、考えてみたら、大人になった私たちだって、本当は同じなのかもしれない。
わからないことの断片を組み合わせて、なんとなくつじつまを合わせて「わかった気」になっているだけなのかもしれません。
というわけで、今回の「ゴッド・ファーザー」 、私にはめちゃくちゃおもしろかったんです。
ところで真君には、この映画のキーワードは、息子の洗礼のシーンでアル・パッチーノが何度も繰り返して言う
《I do. 》
である、と言っておきました。
もっとも、これはひょっとして私が理解しえた唯一の英語だったというだけのことかもしれないのですが。