歯抜け猫
爪は お前の爪はまだあるか
― 中野重治 「爪はまだあるか」 ―
この夏、ヤギコの歯が抜けた。
飼い主に似るのは結構だが、そんなところまで似なくていいのに。
下あご左側の犬歯(猫だから「にゃん歯」か)が一週間ほど前抜けてしまったのだ。
いやはや。
本人は一向不便を感じているようでもないが、いよいよ彼女も「歯抜け婆さん」の 域に届いてきたらしい。
そういえば、中野重治に
「おまえの歯はまだあるか」
という詩があったなあ、と思って詩集を開いてみたら、「あるか」と問われていたのはなんと「歯」ではなく「爪」であった。
私の失くしたものは「歯」だけではなくかったらしい。
記憶もまたまたよれよれである。
というわけで、罪ほろぼしに以下に全文を載せてみる。
お前は
ひろい瞼をまどかけのように下ろし
そこの陰からいつまでものぞいていた
お前は
そのあいだじゆう爪を噛み
つばきはお前の指さきをぬらした
爪はまだあるか
お前の俤(おもかげ)をたずねてわたしは鏡のなかに目をつぶる
わたしの瞼は美しいあのかあてんのようでない
わたしは十本の指をのばして一枚一枚に爪をしらべる
爪のおもては曇つて
哀しいくれないの色が浮かんでいない
それにわたしの爪は
恐らくおいしくはないだろう
爪は お前の爪はまだあるか
私は「歯」をなくしたので、自分の「爪」を噛むことはできない。
おかげで私の「爪」はまだあるようだ。
ヤギコもまた歯は失くしたが、あいつの爪はいつだって生えかわる。
ふだんはやわらかな毛と肉球の間に隠されているが、いざとなったら、いつだってそいつをひっぱりだして獲物を捕え、からかう私の腕に傷をつける。
そういえばヤギコも爪を噛む。
けれども、それは爪を失くすためではなく爪を鋭く保つためだ。
見習わなければ。