AC
アーナンダよ、それらの内外および左右には,多くの水浴する池がある。
― 「大無量寿経」 (早島鏡正 訳) ―
暑いですな。
暑い。
日差しは午前中から肌を刺すように痛く、日本中がうだっている。
こうなると、どこかの水辺の涼しい木陰なんてのが恋しくなります。
水辺といえば、平安時代の半ば以降、日本には浄土信仰というのが広がりました。
死んだあと阿弥陀様がいらっしゃる極楽浄土へ生まれたいという願いをみんなが持ったという時代です。
さて、その極楽浄土がどんな場所であるかはお経(大無量寿経)に実に詳しく書いてある。
今はまあ日本語に訳されたお経を読むこともできるんですが、当時は、漢字ばかりで書いてあるお経を誰もが読めるわけではないから、それをお坊さんが語り、人々はそれにあこがれるわけです。
いいなあ、すばらしいなあ、とみんな思う。
ああ、浄土に往生したいなあ、と思う。
さて、お経には極楽浄土へ行くための方法がいろいろ書いてあるんですが、その中に「観想」ってのもある。
つまりは、心の中にその浄土の様子を常に思い浮かべるとそこへ往生できると書いてある。
そうか、そうなのか、では、そいつを二六時 はっきりと目に見えるようにするのに、いっそのこと浄土に似たものをこの世に作ってしまっちゃえ、と、当時の財力のある中央の貴族やあるいは地方の豪族たちは、思ったりする。
で、その極楽浄土らしいものをこの世にこしらえたりした。
それが、宇治の平等院だったり、奥州の中尊寺、あるいは毛越寺だったりする。
要は、あれらは今で言うディズニーランドみたいもんですな。
平安時代のテーマパークです。
ところで、今のテーマパークには大きな頭のミッキーマウスみたいなキャラクターがいないと夢の国にはなれないらしいが、当時のメインキャラクターは何といっても阿弥陀様です。
この方がいらっしゃらないと、極楽浄土に見えない。
定朝という仏師が荘厳なお顔の仏様を作るんですが、あちこちの貴族から依頼されるんで、一本の木から仏様を彫り出すなんて悠長なことはやっておられず、寄木造(よせぎづくり)というて、各パーツを工房で弟子たちに彫らせて それを一体の仏に組上げる方法でたくさんの仏像をつくりました。
まあ、しかし、キャラクターだけではいくらなんでも浄土らしくないので、お経に書いてある通りの建物や風景もテーマパークには欠かせません。
立派に荘厳(しょうごん)された建物をしつらえ、そして何よりもそこには水がなければなりません。
池、ですな。
これがないと、極楽浄土には見えない。
あの、ですな、日本も暑いが、お釈迦さまのお生まれになったインドはもっと暑い。
そんなところで生きている人たちにとって、理想郷というのは何と言っても涼しい場所です。
クソ暑いお浄土なんてのは考えられない。
だから、お経にも お浄土には池があるとちゃんと書いてある。
で、
その池において水浴するならば、身心ともに晴れ晴れとし、喜びにあふれて心のけがれを洗い去ってしまう。
と書いてある。
まあ、これは、浄土にかぎらず、今日みたいな日にプールに飛び込んだ感じそのままですな。
気持ちよさそうです。
平安の貴族が池で泳いだのかどうか、私はたしかには知らないんですが、夏ともなればインドに劣らず暑い日本でも、これはやはり理想郷だったんでしょうな。
池なしの阿弥陀堂なんてのはあり得ません。
しかしまあ、今は池がそばになくてもよい時代になりました。
どんなに暑くともまあ、クーラーなんてのがあります。
で、今日みたいな暑い日は、プールに行く体力も気力も時間もない者にとっては、これじゃあ、とてもじゃないが、クーラーなしではやっていけない。
にもかかわらず、今年はどこからも節電の声は聞こえず、ニュースのたびごとに本日の電力使用のパーセントを深刻な顔で伝えるなんてこともないのはどうしたことでしょう。
いったい、ほんとうにこの国は「原発なし」でやっていけない国だったんでしょうか。
ところで、もう二十数年前、前野氏とインドを旅したとき、ホテルの前の客引きの男が、やたらに
AC! AC!
と叫んでおりました。
ACというのエアコンディショナーの略ですな。
「クーラー、ありまっせ!」
というわけです。
ずっと、クーラーなしの安宿に泊まっていたわたしらも、まあ、今日はエアコン付きの部屋に泊まるかとその日はAC付きの宿にしたんですが、エアコンの傍らに寝た前野氏は翌朝、 わたしに言ったものです。
「わっしゃ、滝の横で寝とる夢見たぞいや」
インドのエアコンはそれほどにものすごい音を立てるエアコンだったのでした。