クマゼミ
ぬけがらもなきがらもある森のなか時間(とき)止まらせてあぶらぜみ啼く
- 木畑紀子
駅に降り立つと八時を回ったばかりだというのに八月の日差しは肌を刺すようだった。
駅前に立つ木の上から聞き慣れぬセミの声が降ってくる。
シャーシャーシャーシャー。
クマゼミ。
はじめて聞く鳴き声だ。
うわさには聞いていたが、なるほどすさまじいうるささだ。
沼津。(先週の八重島君の結婚式はそこであった)
40年前静岡に暮らした夏にも聞かなかったクマゼミが今では少なくともこの伊豆半島の西側にまでは進出しているらしい。
沼津の町は街なかの街路樹も川沿いの並木も神社の杜もみなクマゼミの声に満たされていた。
幹を見ればアブラゼミも止まって腹を震わせてはいるのだが、そんな声はみなかき消されてしまっていた。
シャーシャーシャーシャー。
今日は8月15日。
かつて日本という国のために犠牲になった人々に思いをはせる日なのだと思っている。
それがどんなに理不尽な時代であったかを思う想像力をわたしたちは枯らしてはならない。
そしてそれは日本という国がもたらしたアジアの人々への犠牲に対する想像力も含んでいなければならない。
だが安倍首相の式辞にその人たちへの言及はなかった。
ぬけがらもなきがらもある森のなか
と木畑紀子は歌う。
いま、なきがらに「英霊」という古い名前をよみがえらせ、これまで68年の「戦後」をぬけがらにし
日本を取り戻す
とこぶしを握りしめていた人が首相を務めている。
憲法解釈を捻じ曲げて集団的自衛権なるものを正当化し、 原発を再稼働し、輸出すらしてみせようという人だ。
不快な声が毎日聞こえる。
あの声高なクマゼミの声がいつ伊豆の峠を越えてくるのかわたしは知らない。
ただ、思うことは自分がヌケガラにはなるまいということだけだ。
たとえ大きな音にかき消されようと、自分の声だけは出していこうと思う。
そんな今年の終戦記念日である。