凱風舎
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東北

 

 そこにあるものは
 そこにそうして
 あるものだ

 

 ― 石原吉郎 「事実」―

 

 人が持ち帰るものが「沈黙」しかない場所というものがあるのだ。
 そして、けっして「物語」としてではなく、そこで見聞きしたことを、事物としてあるいは風景として「体言」のまま正確に記憶しておくべきことが人にはあるのだ。
 たとえば、昨日車を止めるたび、人住まぬただの野原になってしまった空から聞こえてきたヒバリの声。
 それをちゃんと「体言のまま」記憶の底に沈めておくことが大事なのだ。
 あるいはなぜだかそこに一本のヒマワリが私の腰よりも低く黄色い花をかかげていたことを、そのかたわらのホームだけが残された駅とともに覚えておくことが大切なのだ。
 あるいは陸地の熱せられた湿気を帯びた暖気が冷たい海の水に触れて霧となり、南に湾曲する遠い海岸線をほのかにかすませていたことを、足もとの浜の小石が不意に降り出した雨の一粒一粒に濡れていったことと一緒に記憶しておけばいいのだ。
 それらの事ども、あるいはそのほかのさまざまな事たちを、私は「体言のまま」覚えておけばいいのだ。 
 「述語」はやがて育ってくる。
 あるいはそうはならず、自分のなかでそれが永遠に「体言」のままであり続けたとしても、それはそれでいいのだ。
 いけないのは、いま安易にそれを言葉に易(か)えることだ。