真夏のヒートテック
お二人さん、これがおぞましくも悲惨なわたしの身の上です。どうです、こんなことが今のわたしの話しぶりよりも冷静に話しうるものでしょうか。
― セルバンテス 「ドン・キホーテ」 (牛島信明 訳)―
俗に
《男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く》
なんてことを申しますな。
男なんてものは、たいがい、ものの扱いが雑で、一人暮らしをしていると周りがどんどん不潔になって行くのに対し、女の方は言うと、一人でいても、身ぎれいにはなやかに暮らしていく、などということを言うとるんですな。
もっとも、何事にも例外というものはあってですな、女の部屋に行っても、「どいや、どいや」と舌打ちしたくなるのもあれば、男の部屋に行って、是非ともわたくしの「家政夫」になっていただきたいと思ってしまうような整理の行き届いた方もおられる。
現に、私の友人のほとんどは一人暮らしの頃から実にきれいに整頓された部屋に住んでおられた。
ところが、これを書いているわたくしは、と申せば、このようなりっぱな友人たちに囲まれながら、どう見ても「典型的男やもめ」であることは、いまさら言うまでもない。
相当にヒドイ。
それでも毎日生徒が来ているから目に見える所に「ウジ」をわかすようなことはありませんが、それも、まあ、「ウジがわかない」というだけのことであって、あとは部屋中スタカメタカのバタバタでございます。
まして目に見えぬところは・・・・。
※
先日、俊ちゃんが書いておったように、彼はJRA福島競馬場の「馬主席招待券」というものを手に入れて、私も誘ってくださった。
それは、たいへん結構なのですが、そこには「ドレスコード」なるものがあってですな、なんでも夏場なのでネクタイは着用しなくてもよいけれど、
馬主席にふさわしい良識ある服装でご来場ください
と書かれている。
私は馬主ではないので、どういうのがそれにふさわしいのかはわからないが、そのような者のためにその下に
Tシャツ・ポロシャツ・ジーパン(デニム系・綿パン系を含む)・・・
は、ダメですぜ、と念を押してある。
ふーん。
実を言えば、私ここ十年ばかり、冠婚葬祭時の礼服以外でジーパンや綿パン・デニム系以外のズボンをはいたことがない。
とはいえ、別にジーパン以外のズボンを持っていないわけではない。
まあ、たった一本ですが、押入れの奥にスーツの上下がぶら下がっている。
ですから、まあ、そのズボンをはいて行けばいいや、そう思ってました。
ところで、あなたがたはカツオブシムシという昆虫をご存知であろうか。
体長は2・3ミリくらいのもんでしょうか、夏、シシウドなんかの花を捕虫網ですくうとウザウザいる。
高校生の頃、こいつを吸虫管という、小さな虫を吸いこむ道具で吸いこんで標本を作ったもんです。
体に白い筋なんかが入っている、まあ、なんてこともない虫です。
でもね、名前が変でしょ。
カツオブシムシ。
別に形が鰹節に似てるわけじゃない。
鰹節を食べるんですな。
成虫ではありません(こいつは花が好きなんです)。
幼虫が、です。
乾燥した動物性たんぱく質が好きなんですな。
で、かつお節ぐらいならともかく、おそるべきことに、こいつはなんとシルクとかウールとかいった動物性蛋白でできている衣類の繊維を食べてしまうんですな。
世に言う、高級繊維、ですな。
ヨワッタ奴です。
まあ、世の中の防虫剤というのは、こいつらを寄せ付けないためのものなんですな。
さて、福島に行くという前夜、私、スーツのぶらさがった押入れを開け、くだんのズボンを取りだしました。
さいわい、夏用の薄い生地です。
ええやないか、と試しにはいてみた。
すると、なにやら紺色のズボンの裾の方にちらちら白いものが見える。
なんじゃろか、と目を凝らすと、これ、小さな穴なんですな。
そこから私の肌が透けて見えてるんですな。
まるで七夕の夜空にかかる天の川の無数の星たちのようです。
では、美しいか、と問われれば、むろん、美しくない。
みっとむない。
言うまでもありません。
もちろんこれはかのカツオブシムシの仕業です。
高校時代の昆虫採集のたたりでしょうか。
イヤな虫です。
むろん、私だって、スーツをしまうときにはちゃんと防虫剤をたっぷり効かせました。
けれどもですな、ここが無精な男のかなしさ。
ちゃんと防虫剤を毎年入れ替える、なんてことをまったくしないできたんですな。
すくなくとも、十年!
長いですな。
長いです。
ウジはわかなくてもカツオブシムシは男やもめにはわいてしまうんです。(私だけか)
いやはや。
私、途方にくれました。
だって、そうでしょう、明日行く、というのに替えのズボンがないんです。
ともかく、これじゃあ《ドレスコード》以前の問題です。
なにしろ天の川の刺繍のあるズボンですからねえ。
「馬主席」どころか、これじゃあ、どこにも行けません。
うーん、どうしよう。
しかしまあ、たとえ防虫剤は切らしても、切れずこんこんとわき出でる知恵というものが私にはあります。
私、タンスの奥から紺色のヒートテックのももひきを取り出しました。
それを下にはき、その上にくだんのズボンをはいてみたんです。
見よ!
鏡に映った私の足からかの天の川は魔法のように消えてしまっています。
すばらしい!
なんたる知恵でありましょう!!
というか、背に腹は代えられません。
目立たなければこれでいいやと私、これで福島に出かけました。
でもね、ときは7月です。
すでに強力なる今年の太平洋高気圧は梅雨前線を北に押し上げ、福島盆地は熱気と湿気にむせかえって、町なかの温度計は午前九時にしてすでに30度を超えております。
その中を、このおっさんはヒートテックのももひきです。
日本広しといえど、こんなアホウはそうそういません。
私、下半身熱中症になりそうでした。
いやはや。
おそるべきはカツオブシムシのたたりでございます。
というか、ちゃんと防虫剤入れろよ!